どうすれば知恵を獲得できるのか(箴言2章)

 知恵を獲得するにはどうしたらいいのでしょうか。「謙遜に知恵の言葉に耳を傾ける」という消極的なアプローチのみならず、もうすこし積極的に知恵を獲得する方策はないのでしょうか。今回は、箴言二章から、知恵を獲得する目的はなにか、どうすれば知恵を獲得できるのか、そして知恵を獲得した時に人はどのようになるのか、を考えてみましょう。
 
I. 知恵を獲得する目的(2:12-22)
 知恵獲得の方策を考える前にまず「知恵を獲得する目的」を考えてみましょう。
 知恵を獲得する第一の目的は、悪しき者たちの手の中に陥らないためです(2:12-19)。悪しき者たちにも男性と女性がいます。まず、悪しき男たち(2:12-15)は正しい、まっすぐな道を離れて、むしろ悪の道を走っています(2:12)。そこは暗闇の中を歩む道であり、かつ「曲がった道」(2:15)です。つまり、知恵の道へ進もうとする青年男子を「曲がった生き方」の男たち、つまり公正と正義をねじ曲げて生きようとする者たちが邪魔をしているのです(2:12-15)。そして、1:10-19に描かれているギャングの一員にならないか、と誘い続けています。さらに、青年は悪しき女からも誘惑を受けます(2:16-19)。本来はユダヤ民族の一員であるにもかかわらず、彼女は「異邦の女(口語訳では『みだらな女』)」と呼ばれています(2:16)。彼女は、なめらかな言葉をもって巧妙に青年を誘惑し(2:16)、神との契約(たぶん結婚)を破ることを何の苦とも思わず(2:17)、彼を死の道へと誘っています(2:18-19)。悪しき男たちも悪しき女も、どちらも若者をいのちに至るまっすぐな道、生き方から引きずり下ろそうとする罠です。しかし、知恵を獲得するならば、これらの悪しき者たちの手から救い出されることが語られています。
 知恵を獲得するもう一つの目的は「善良な人々、正しい人々」の道を歩むためです(2:20)。「命か死か」という二者択一の人生において、曲がった道ではなく、まっすぐな道を選び取ることができます。そして、その結果、この地上においての祝福(長寿)が約束されています(2:21)。悪しき者たちが経験するであろう短い生涯から救い出されます(2:22)。
 
II. 知恵を獲得するためにすべきこと(2:1-4)
 では具体的にどのようにすれば知恵を獲得し、死への誘いから救い出され、命の道を歩むことができるのでしょうか。
 まず第一に「知恵の言葉を語ってくれる人」、箴言の場合は知恵を継承してきた両親、を持つことです(2:1)。現代社会では、家族との交わりが希薄になった結果、「知恵を伝えてくれる人」との交わりが希薄になってしまっています。その結果、多くの人が長い歴史に裏打ちされた知恵を譲り受けることなく成長してしまっています。教会の交わりがそんな場となればいいのではないのでしょうか。
 第二に知恵の言葉を「意識的」に聞こうとする姿勢が必要です(2:2)。あらゆることが習慣化し、無意識に行動することが多い私たちです。しかし、そこからの脱却し、絶えず「知恵を学んでいる」という意識を持って様々な出来事に向き合う必要があります。
 第三に神に祈り求めるように知恵を求めることが大切です(2:3)。「別に知恵のある生き方を獲得しなくてもいい」というような曖昧な求め方では決して知恵を自分のものとすることはできません、神に対する祈りのような切実さ、真剣さをもって(「呼び求め」「声を上げ」)、繰り返し知恵を求めるべきです。そして、日々、継続して知恵を求めるべきです。
 第四に危険を冒してでも知恵を獲得しようとする姿勢が大切です(2:4)。銀や隠れた宝をたずね求めることは、命がけの作業でした。しかし、人々はこれらのものにそれだけの価値を見いだして、命がけで向かっていったのです。同じように、危険を冒してでも獲得するだけの価値が知恵にあることを認め、命を張って探し求めることが大切です。そのようにしてはじめて、知恵を獲得することができるのです。
 これらの条件をみていくとき、どれだけ意識的に、真剣に、危険を覚悟で知恵を探求しているかを探られるのではないでしょうか。逆に言えば、そこまで求めていないからこそ、私たちの人生は知恵にみちた人生になっていないのかもしれません。
 
III. 知恵を追い求めたとき起こること(2:5-11)
 2:1-4に描かれている姿勢で知恵を追い求めたとき、いくつかのことが起こります。
 まず、「主をおそれる生き方」が自らのものとなります(2:5)。確かに「主をおそれること」は知恵を学ぶための大前提ですし、教えられやすい姿勢のない者は知恵をえることはできません。しかし、「主をおそれること」は知恵を学ぶことによってより深められます。教えられやすい姿勢がより深くなり、主なる神の全権、全能がより自分の人生において現実的なものとなっていくのです。「みのるほど頭を垂れる稲穂かな」のとおりです。なぜ知恵を求めれば、そして知恵を獲得していけば、主を恐れるようになるのでしょうか。それは、主なる神こそ知恵の源泉であるからです(2:6-8)。たとえ両親の言葉を通して知恵ある生き方を学んだとしても、彼らを用いて知恵を与えられるのは主です。聖書の知恵は単なる人間の経験から導き出された人生操縦法ではありません。それはひとりびとりの人生に直接関与される神と共に歩む秘訣こそ知恵です。この当たりが、この世の知恵と聖書の知恵の大きく異なる点です。
 次に、知恵を探求する者に知恵自らが働きかけるようになります(2:10-11の主語は「知恵」である点に注目)。知恵が自らすすんでその心に入り、楽しみとなり、守り、保ってくれるのです。知恵は確かに私たちが「獲得」するものであるが、同時に求めるものに対して知恵自らが応答します。知恵ある生き方は人が捜し求めるものであるのと同時に、神から与えられるものだからです(1:28参照)。そういう訳で、「知恵に近づけ、そうすれば知恵もあなたに近づく」という考え方は真理です。
 更に、知恵を求めるものに知恵自らが働きかけ、公正と正義と公平な生き方を与えてくれます(2:9)。その結果、主なる神が知恵ある生き方を続ける者を守り(2:7)、さらに引き続いて公正と正義と公平に歩めるように助けてくださるのです(2:8)。知恵ある生き方は時に困難が伴います。正しいがゆえに抵抗に遭うことがあり、知恵ある生き方をあきらめなければならない所まで追い込まれることもあります。しかし、知恵を求めるものに対して、そのような抵抗に乗り越える力を主は与え、より成熟した知恵ある生き方へとその人を導いて下さいます。だから、知恵を獲得しようと求める生涯は「知恵から知恵へ進む」上り調子の人生であり、命と祝福へと私たちを導くものであることを心に留めましょう。
 このように見ていく時、知恵を獲得する方策に二つの側面があることがわかります。まず、知恵はひとりぼっちでは獲得できないという点。知恵の獲得は共同作業です。人生の先駆者たちの言葉を通して神ご自身が働かれ、知恵そのものもわたしたちの知恵の獲得に積極的に関わっていいます。次に、知恵獲得は長いプロセスである点。一度獲得したら後はもう大丈夫、ではありません。知恵を追い続けることにより、より知恵を受けるにふさわしい生き方に変え続けられるのです。そんな知恵ある人生を追い求め続けたいものです。