誰の声に聞き従うのか(箴言1:8-33)

 「わが子よ」(1:8)とはじめられていることからわかるように、箴言1:8-9:18は両親の跡継ぎである息子に対する諭しの言葉です。ですから、この説教の冒頭で、両親は自分たちが語る言葉に聞き従うことが重要であると語っています(1:8-9)。両親のアドバイスは決して無駄になることはなく、冠や首飾りのようにそれに従う者を美しく飾るからです。このように、箴言はその人を美しくする「躾」(しつけ)と考えることができます。しかし、いつの時代も「子どもは親の言うことは聞きません」。むしろ、友達の言葉にこそ耳を傾けます。この現実をどう打破すればいいのでしょうか。
 
I. 悪友(1:10-19)
 両親は、町を徘徊する若きギャングたちがこの跡継ぎに声をかけ、悪いことをしようと誘うことを知っています。「待ち伏せしよう、人の血を流そう、罪のない者を狙い撃ちしよう、健やかな者を墓に下る者のようにしよう、尊い家財を得よう、奪い取ったもので家を満たそう」(1:11-13)と語ることによって、彼らは略奪と暴力に青年を招いています。ふつうの感覚ならばそんなグループに入ることはないはずでしょう。しかし、時代を問わず多くの若者が悪しき者の世界に入り込んでいきます。なぜでしょうか。それは、悪しき者たちのグループに属すれば、誰かから教えられることもなく、だれからも強制されずに、自分の好きなように生きることができるからです。そのことは、ギャングたちの言葉において「わたしたち」を繰り返していることからわかります(1:11, 13-14)。このグループにいる限り、みなが「平等」に取り扱われます。そして、それぞれが自分の持っているものを持ち寄り、一つの財布を共有するのです(1:14)。もはや「教える者」と「教えられる者」の区別はありません。権威的な両親のいないギャングの世界は若者には魅力的です。
 しかし、両親は彼らの招きの声に従ってはならない、仲間になってはいけない、と力説しています。それは彼らが人々を傷つけ、血を流し、隣人をいたわらないからです(1:16)。しかし、それに加えて、「ギャングたちの生き方は自己破壊を招く」から、両親は息子へと警告を与えています。彼らは他人の血を流そうと伏してねらっています(1:11)。しかし、最終的に流すのは自らの血です(「彼らは自分の血を待ち伏せし、自分のいのちを伏してねらう」〔1:18〕)。自分で張った罠に自分で陥っていくのです。そのような自殺行為を止めるようにと、両親は息子に語りかけています。
 
II. 知恵(1:20-33)
 ギャングたちとは対照的に、町の最もにぎやかな所、人が頻繁に行き交う所(「広い街角」「大広場にある市場」「さまざまな報告がなされる城壁の頂き」「人々が相談をする町の門の入り口」)で知恵は声をあげています(1:20-21)。知恵の言葉は悪友たちの甘いささやきではありません。あたかも預言者が主の審判を宣告するように、厳しい叱責の言葉で知恵は語っています。
 知恵の叱責は知恵を獲得しようと努力しない「思慮のない者(知恵の教育を受けていない者)」や「あざける者(傲慢な者)」に向けられています(1:22)。彼らは今までの状況に留まることを心地よいと思っています。ですから、知恵の教育を受けない状況に留まり、傲慢であり続け、知恵を憎み続けています。しかし、知恵はあえて現状維持を求める人々に「わたしの戒めを心に留めよ、私はあなた方に伝えているのだ」と訴えています(1:23)。
 なぜ知恵はそのように強烈に訴えているのでしょうか。知恵は町の最もにぎやかな所で預言者のように声を上げ、人々に警告を与えてきました。手を伸ばし、知恵ある生き方を伝えてきました。だれにでも知恵の言葉に耳を傾けるチャンスがあったのです。しかし、人々は知恵に聞き従うことを拒み、その言葉に注意を払いませんでした(1:24)。彼らは現状維持を選んだのです。そして、知恵のすべての忠告と戒めを受け入れませんでした(1:25)。むしろ、悪者たちの声に聞き従ったのかもしれません。その結果、彼らに待ちかまえているのは何でしょうか。知恵を見捨てた彼らが今度は知恵に見捨てられるのです。突然の災いや恐慌が彼らに襲いかかった来た時、知恵は彼らを見てあざ笑う、と宣言しています(1:26)。
 かつて知恵は思慮のない者とあざける者に呼びかけていました。しかし、悩みと悲しみが襲いかかる時、今度は彼らが知恵に呼びかけます。嵐のような困難の中で彼らは知恵に助けを求めますが、知恵は彼らの声に応えず、彼らは知恵を見いだすことはありません(1:27-28)。困難に陥ってからではもう遅いのです。知恵の声に答えなかったから(1:24)、知恵も彼らに応えなくなってしまったのです。
 知恵に生きることには二つの特徴があります。まず、現状維持に甘んじ続けるならば、知恵に生きることはできません。知恵の声に従って新しい生き方を選び取ることには痛みが伴いますが、それを喜んで受けることなしに、知恵に生きることはできません。もう一つの特徴は、知恵に生きるためには日々の鍛練が必要である、ということです。日々知恵の声に耳を傾け、それに答え続けていく時、知恵に生きる生活がわたしたちのうちに形作られていきます。「困った時の知恵頼み」の生き方では、人生の困難を乗り越えていくことはできません。突然の災難に対処することができないからです。
 
III. 誰の声に聞き従うのか
 両親は子どもに世界で聞こえる二種類の声を聞かせています。そして、「あなたは誰の声に聞き従いますか」と問いかけています。叱責の言葉に頭を下げなくてすみ、自らのプライドが傷つけられることもない悪者たちの声でしょうか。楽な選択ですが、最後には「自分の行いの実」(1:31)を食べなければなりません。「おのれを殺し・・おのれを滅ぼす」(1:32)死と呪いの道です。その一方で知恵の叱責の言葉は私たちのプライドをうち砕きます。自らが「現状維持」に甘んじていることを認め、教えられるべき存在であると謙遜にならなければなりません。簡単に受け入れられる道ではないでしょう。しかし、知恵の言葉に耳を傾ける道こそ祝福を安心の道です(1:33)。そして、それは「両親の語る知恵の言葉に聞き従う」道でもあります(1:8)。あなたはどちらを選び取るのでしょうか。更に、「知恵の叱責の言葉を受け入れる」ことはすなわち「主をおそれること」を選ぶことです(1:29-30)。知恵によって自らの生き方を整えるのは、主の権威の下に自らをおくことでもあるからです。前回の学びでも語りましたが、主をおそれることの具体的な現れは「教えられやすさ」です。つまり自らの足らないことを率直に認める謙遜さは主をおそれることと密接につながっています。今日、主をおそれつつ、知恵の叱責の言葉の前に頭を下げたいものです。そして、知恵の言葉に素直に従う者とさせていただきましょう。