加藤周一の夕陽妄語

 今日の朝日新聞の夕刊に加藤周一夕陽妄語が記されていた。
 一人の書籍編集者の死から始まり、死の持つインパクトについて語られている。

 俚言に金持ちも金を墓場までは持っていけない、という。墓場の彼方には、自由市場も、「グローバリゼーション」もなさそうだ。しかし死は「グローバル」な現象であり、此岸における貧富・上下・正邪・大小・強弱などの差異は、死の瞬間に消える。すなわち消失の「グローバリゼーション」が起こる。因果応報がおそらく成り立たないとすれば、死は不条理な強制であり、すべての人間を平等に襲う。すなわち不条理の平等主義である。逆に絶対的な平等は死においてのみ成り立つ、といえるだろう。

 この部分の論旨はまさに伝道の書9:1-3である。加藤周一は伝道の書を読み、そのメッセージを把握しているのだろうか。
 こののち、彼は「生」について考え、そこに自由という概念を持ち込む。生の条件である差異から生まれるのが、競争であり、競争は自由の表現であると語る。そして、日本における平等と自由の定着について、前者は定着してきたが、後者はそうではない、という話が続く。
 そして、最後に、次のように書いている。

 すべての死が不条理であり、理解を拒むものなのだろうか。そうかもしれない。私はかつて引いた陶淵明の二行を再び思い出す。「死去何所知」−−死ねばどうなってしまうのかわからない、というのでそこまでは反対者が少ないだろう。だから生きているうちにどうすればよいのか。淵明の答えは「稱心固為好」である。みずから自由に決めるが好い、というので、そこに「自由」の語は用いられていないが、「稱心」のなかに現代語の「自由」の意味が含意されているかもしれない。
 聡明な「論語」は、その話はやめよう、といった。信仰を前提とする「旧約聖書」の「伝道之書」は、人間の所業のすべて「空の空なる哉」としたうえで、「神を畏れその誡命を守れ」と結論した。人さまざま。私の立場は日常生活の些事に紛れる。亡くなった編集者の友人に導かれれば、淵明の吟懐をおもいだすところまでゆくこともある・・。

 死の不条理の平等のゆえに、生を自由に生きよ、というのが彼の引用した中国の思想家の意見か。「稱心」は正確には「心のかなうまま」だから、ひょっとすると伝道の書とよく似ているかもしれない。自由という解釈はちょっと無理があるかも。ただ、彼の伝道の書の理解は、すこし浅いかなあ、と思う。コヘレトなら、死の不条理の平等のゆえに、いま与えられているものを最大限に喜び楽しめ、とでもいうのだろう(9:7-10)。単に戒めを守れでは、ちょっと、不十分か。
 それにしても、死の不条理から伝道の書を引用する当たり、結構、加藤周一は聖書を知っているようだ。