霊感と正典:わたしの頭の中の混乱

以下の文章の内容は「思考、現在進行形」であって、結論ではありません。引用しないように。これをもって、私の考えであると結論づけないように。

 聖書の霊感と聖書の正典性は切っても切れない。なぜならば、霊感とは正典である書物に関することについて語っているからである。Paul Achtemeierが示唆しているように、正典でない書物の霊感については全く考えないのだから、この二つの結びつきは否定できない。
 このあたりから私の頭の中で混乱が始まっているのかも知れない。つまり、聖書の霊感を考えるに当たっては、「神」がこの聖書の形成過程にどのように関わってきたかを考えている。つまり、聖書の歴史的側面が聖書の霊感に関わる議論においては大切になってくる。「学問的」に聖書を考える段でも、この聖書の歴史的側面が大切となってくる。その一方で、教会における聖書解釈とその神学的考察においては、聖書の最終形態のもつ性質(正典であり、霊感を受けて書かれている)が重要になる。当然、学問的な聖書の学びと教会における聖書解釈とその神学的考察とは複雑にかかわり合い、相互に依存し合い、時には反目し合っている。しかし、聖書の霊感を議論する過程においては、「学問的な聖書の学び」と「教会における聖書解釈とその神学的考察」とは分離すべきである。そうしないと、「最終形態のテキストを強調するあまり、歴史的研究の重要性を否定しているように感じさせる」結果となる。正典としての聖書、聖書の持つ文芸的な側面の強調は、無用な誤解を生みだすのだ。
 私の混乱の根っこには、この分離が曖昧であった点があったのではないだろうか。つまり、あまりに「教会」という現実の中にはまりこみ過ぎているという現実のなかで生きているから、学問的な理解に関する部分と「教会における・・・」の部分の分離がしっかりできなかった訳である。もちろん、教会のおける聖書の解釈において学問的な側面は重要であり、それを忘れてはならない。しかし、「聖書の霊感」を議論するためには、この二つの側面を分離する必要がある。
 すこしずつ、自分の頭が整理されてきたようだ。