まだ聖書の霊感について考える

これは現在思考中の書きなぐり。まだちゃんと考えがまとまっていません。引用はしないように。

 聖書の霊感は正典である66書のテキストに焦点を当てている(「旧新約聖書はすべて神の霊感を受けている」)。したがって、最終形態にあるテキストが霊感を考える上でのゴールであり、聖書の霊感は絶えず聖書の正典性と関わりの中で考えていかなければならない。
 その一方で、ゴールであるテキストが形成された過程を考える時、神はそのあらゆる過程に働かれている。著者、編者、彼らが留まり、関わっている共同体、彼らが目の当たりにした出来事、これらすべてに神が特別に働いて、これらが互いに関わり合うことによって、霊感を受けたテキストが生まれてきた。聖書の霊感の最終的な焦点は正典のテキストであるが、神の著しい働き(霊感)はそのテキストが今の形になるまでのあらゆるプロセスに見いだされる。
 このように整理していくと、一番最初の聖書の霊感に関するエントリーはテキストに対する霊感に対して、強調のしすぎの傾向があることがわかる。最終形態の意味を知るだけではなく、それに至る過程の中で神がどのように伝統、著者、編者、共同体、出来事に働かれたかを知る上で、健全な歴史的批評学は大切な役割を果たすことが考えられよう。そして、それらのプロセスの理解を通して、より鮮やかに聖書の霊感の最終的な焦点である正典のテキストを理解することができるのだ。