死を見据えて神の賜物に生きる(伝道の書11:7-12:8)

 いままで様々なアドバイスをわたしたちに投げてきたコヘレトは、その書の最後においても大切なことをわたしたちに語ろうとしています。大変有名な箇所でありながら、誤解されやすい箇所を共に考えてみましょう。

I. 太陽の日とやみの日(11:7-8)
 最後のアドバイスをはじめるに当たって、コヘレトは「太陽を見る」ことのすばらしさを訴えています(11:7)。「光」や「太陽」は生きていることを表しています。つまり、生きていることは素晴らしい、だから、生きている間、可能ならできる限り楽しむようにと、喜びを享受することをすすめています。しかし、コヘレトは単なる楽観主義者・快楽主義者ではありません。すぐに続いて「暗い日の多くあるべきこと」(11:8)を忘れないようにと警告を発しています。大変な損失や死同然の状況に陥る時、もはや楽しむことができなくなる時が訪れる可能性をわたしたちはいつも忘れてはならないのです。
 コヘレトは人生の可能性と危険の両方を承知しています。神の楽しみを喜ぶ可能性とそのような神の賜物を全く経験できない危険性の両方を承知の上で、神から与えられた賜物を喜び生きることをすすめています。ちょうどやみの現実が暗ければ暗いほどそこに差し込む光がまぶしいように、蒸気のようにつかみ所のない人生において今の可能性を生かすようにわたしたちにコヘレトは勧めています。光の日が与えられているならば、それを捉えるように命じているのです。

II. 時をとらえよ(11:9-12:1)
 それでは人生の可能性と危険性を承知の上で今与えられた神の賜物を喜び楽しむためにはどのように生きればいいのでしょうか。
 まずコヘレトから「若い者たち」に対するアドバイスが記されています(11:9)。「あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ」。まさに楽しみ喜ぶ可能性があるその時に、神からの賜物である喜びを存分に味わうことが勧められています。さらに「あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め」とあります。これは「自分の好きなように生きよ」という自分勝手な生き方を勧めているものではありません。「心」とはわたしたちが喜び楽しむ所であり、「目」とは満足を感じる場所です。つまり、満足も喜びもない生き方(たとえば、永続するような儲けを獲得しようとあくせくする生き方)を送ってはならないとコヘレトは若者たちに命じています。さらに、この二つの勧めに続く「そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ」は一般に「楽しんで生きるのはいいが、楽しみすぎた時には神からの厳粛な裁きをうけるぞ」という脅しのように理解されています。しかし、伝道の書の全体の文脈から考える時、この勧めは全く逆のニュアンスがあることがわかります。つまり、ここでいう神の裁きとは「楽しみすぎた者に対する罰」ではなく、「神の賜物である喜びと楽しみを有効に用いないで無駄にしてしまった人に対する罰」を意味しています。つまり、楽しむ機会を逸してしまったことそのものが神の裁きであり、楽しむ機会をとらえて、それを味わった人は神から祝福された人であると考えることができます。神から与えられた喜ぶ機会という賜物を有効に味わうことを神はわたしたちに求めておられます。そして、それを無駄にしてしまった人には、もう喜ぶ機会が与えられない可能性という厳粛な裁きが下るのです。
 さらに二つの奨励が続いています。まず、「あなたの心から悩み(怒り)を去り、あなたのからだから痛み(悪)を除け」(11:10)とあります。ここで避けるようにと勧められている悩み(怒り)や痛み(悪)はどちらも喜びを妨げるものです。これらを取り去ることによって、神の賜物である喜ぶ機会をできる限り多くもつようにとコヘレトは訴えているのです。なぜでしょうか。それは「若い時と盛んな時はともに空だから」です。若い時はすぐ過ぎ去ってしまいます。その現実を踏まえて、神の賜物を喜び楽しむ時を捉えるように訴えているのです。「命短し、恋せよ、おとめ」と同じ情感が込められています。そして、最後の奨励が「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」(12:1)です。この世界を造り、喜びを賜物としてわたしたちが驚くような時に与えて下さる方を心にとめ、この方を計算に入れて生きるようにコヘレトは訴えています。人はすぐに様々なことを忘れてしまう存在です。それはすでに述べたようにこの世界がそのようにできているからです。しかし、この世界に振り回される事無く、むしろ喜びを味わって生きていくために必要なことは、この神を心に留め続けることなのです。そして、心にとめ続ける者は、時を捉えて生きていくことができるはずです。
 コヘレトのアドバイスを見ていく時、彼は繰り返し、神の賜物である喜びの時を楽しみ、無駄にすることがないように訴えています。さらに、この楽しみを与えて下さる神を計算に入れ、忘れることなく生きるように勧めています。

III. 死が来れば神の賜物を楽しむことができないから(12:1-8)
 それでは、なぜコヘレトはそのようにわたしたちに訴えているのでしょうか。それは死が訪れれば、神の賜物を味わうことができないからです。
 12:1-7に書かれている詩は「老齢を比喩している」とよくいわれています。しかし、注意深く読み進める時、それが「死」そのものの情景を表していることに気がつきます。「わたしにはなんの楽しみもない」(12:1)という時は死の時です。そして、「日や光や月や星の暗く」なる時(12;2)とは神の裁きの日であり、コヘレトにとっては人の死の日です。神の裁きの日の情景が12:2-5まで続いています。その日には「雨の後にまた雲が帰って来る」という不自然なことが起こります。また、力ある男たちも、身分に関わりなくおそれおびえ、労働する女たちは仕事のを止めざるをえなくなり、身分の高い女の目は暗くなり、家庭が機能しなくなります。町は閉ざされ、商業活動が止まり、臼を挽くという日々の活動さえも止まってしまいます。その一方で、鳥達の声は大きくなり、「歌の娘たち」と呼ばれる鳥は低く飛ぶようになります。また、植物さえも神の裁きの到来のゆえに枯れ果ててしまいます。あめんどうの花は開き切り、いなごいう名の植物はうなだれ、ふうちょうぼく(口語訳では「欲望」と訳されている)の実はばらばらに散らばってもう使いものにならなくなってしまいます。死の到来のゆえに、すべてが役立たずになってしまうのです。さらに「葬送行列」が町を行き(12:5)、食器は使い物にならなくなります(12:6)。そして、死と共に人は土に帰り、命の息である霊は神の元に帰るのです(12:7)。
 このように、12:1-5においてコヘレトは死の到来とそれによる全ての終わりを描いています。死の時が訪れる、そうしたら、神の賜物を楽しむときがなくなる。だから、今、この時、神の賜物をよろこび、世界を造られた方を心にとめて生きるように訴えているのです。
 死がいつ訪れるのか、だれにもわかりません。また、神は驚くような形で、驚くような時に、すばらしい賜物をわたしたちに与えて下さるお方です。だからこそ、今、生かされているこの時に、神の賜物を喜び、楽しみましょう。そして、わたしたちの生涯を統べ治めておられる全権者である神を覚えて歩ませていただきましょう。