思慮深く、気前よく生きる(伝道の書11:1-6)

 永遠に残る儲けを得ることができず、かつ将来について完全に予測できない人間がしあわせに生きるためにはどうすればいいのでしょうか。コヘレトは今までの議論を踏まえて、いくつかのアドバイスを11:1-6で読者に述べています。

I. 喜びの機会をできる限り多くの人に分け与えよ(11:1-2)
 コヘレトの最初の命令は「あなたのパンを水の上に投げよ」(11:1)です。無駄に思える行動を彼は勧めています。しかし、ここでいう「パン」とは食物だけを指すのではなく、「喜びの機会」(9:7)そのものを指します。つまり、神から喜びの機会が与えられたならば、それを独占するのではなく、たとえ無駄と思えてもその機会をまわりの人に分け与えることを指しています。人々に分け与える事によって、より多くの人々が喜びの機会を得ることができるでしょう。なぜこのように気前よく生きるべきなのでしょうか。それは「多くの日の後、あなたはそれを得るから」(11:1)です。水の上に投げたパンが数倍になって帰って来るわけではありません。しかし、後の日になって、今度は他の人から自分がパン、すなわち喜びの機会を与えられるかもしれません。もちろん、確実に起こる事ではないでしょうし、いつまでも続く儲けを求めるわけではありません。しかし、何が起こるかわからない、不確かな世界に生きているからこそ、気前よく分け与えるべきです。自分がパンや喜びの機会を全く得られなくなった時に、驚く人から神の賜物が届けられるかも知れないからです。
 コヘレトは続いて「あなたはひとつの分を七つまたは八つに分けよ」(11:2)と命じています。ここでいわれている「ひとつの分」も「喜びの機会」と密接に結びついている言葉です(2:10: 3:22)。ひとりか二人だけに喜びの機会を分け与えるのではなく、できる限り多く、あたかも慈善行為と思われるほど広い範囲の人々に分け与えるようにとコヘレトは勧めています。それは「あなたはどんな災いが地に起こるかを知らないから」(11:2)です。つまり、将来なにが起こるかわからないという現実を鑑みて、できる限り多くの人に分けておくように勧めています。なぜでしょうか。それは持ち物を広く分散する事によって、全てが失われてしまう可能性をより低くするためです。最悪を想定して行動するようにとの勧めと考えることができます。
 どちらの命令も、将来が不確かな世界に生きている者に対するアドバイスです。何か確実な儲けを得ようとする無謀な考えではありません。神の賜物である喜びがすこしでも自分のところに届きやすいようにと願っての行動指針です。将来何が起こるかわからない自らの無知を知り(思慮深さ)、人に喜んで分け与える(気前のよさ)生き方が勧められています。コヘレトの一貫した立場でしょうが、「二人のほうがひとりよりもよい」という共同体として生きることが勧められていることは注目に値します。

II. 危険を冒せ(11:3-4)
 続くコヘレトの二つはアドバイスは一見相反するように思えます。まず、自然現象に何らかの因果関係があることが述べられています(11:3)。雲に雨がたまり、それがいっぱいになれば雨が降ります。また、木が北風や南風に吹かれた時、吹いてきた風の方向に則って木は倒れます。このようにして、因果関係がわかれば、これから起こる事が予測できるでしょう。
 しかし、コヘレトは11:4において「風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈る事をしない」と断言しています。風の向きが様々な出来事と因果関係があるとしても、種まきに最善な風向きを待ち続けているならば、種をまく事ができないかもしれません。また、雲に関することに因果関係があるからといって、作物を刈り取る最善の雲の様子を待ち続けていたら、いつまでも刈り入れる事はできないかもしれません。完璧なタイミングを狙っていたら、いつまでたっても行動に移せないことへの警鐘です。たとえ時が最善でなかったとしても、なんらかの結果を生み出すために行動に移す必要があります。
 世の中の出来事には様々な因果関係があります。そして、それをある程度把握する事はできるでしょう。しかし、世界には人間には理解できない不思議がたくさんあります。人知では知り尽くす事のできないのがわたしたちの世界です。ですから、ある行動を起こす完璧なタイミングを探り求めても、それを見いだす事ができるとは限りません。むしろ、最善でなくても、危険を冒し、行動を起こす事が大切であるとコヘレトは命じています。世界は不確かです。だからといって行動を躊躇してはいけません。積極的に前に進んでいくとき、何かが起こるのです。

III. 無知を前提に生きる(11:5-6)
 最後のアドバイスは人間の無知に関するものです。人はすべてのことを知り尽くしているわけではありません。たとえば、身ごもった女の胎内にあるこどもに神の息である霊がどのように入っていくのか知りません。それと同様に、「全ての事をなされる神のわざを(人は)知らない」のです(11:5)。ですから、「何かを知っている」という前提で生きるのではなく、「わたしたちには知らない事がたくさんある」という前提に立って生きることこそ、しあわせに生きる秘訣です。
 それでは無知であることを前提にして生きる歩みとはどのようなものでしょうか。それが11:6に書かれています。「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない」。つまり、いつも種をまき続けよ、という意味です。なぜならば、芽を出し、実を実らすのがあの種なのか、この種なのか、それとも両方なのか、人にはわからないからです。このように、「わたしにはわからない事がたくさんある」のだから、あらゆる可能性にチャレンジしてべきです。「全部わかってから行動に移そう」では何も起こらないでしょう。
 このように、コヘレトはこの不確かな世の中で思慮深く、気前よく、危険をおそれずに挑戦することを勧めています。それは決して「いつまでも残る儲けを確実に残す」ことを求めた行動ではありません。損をする事もあるでしょう。しかし、無駄を承知の上で行動する必要があります。
 世の中は不確かです。そして、それゆえにわたしたちは危険を冒したがらないものです。現代に生きるわたしたちもそうでしょう。しかし、コヘレトは全く逆に物事をとらえています。「わからないからこそ、思慮深くかつ大胆に行動せよ」。このアドバイスを心にとめて進んでいきたいものです。