教育の目的

 前文はさておき、まず最初から。現行法は

(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

その一方で、自民党の改正案は

(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 違いを考えて見よう。まず、改正案では、「平和で民主的な国家及び社会の形成者としての必要な資質」という表現である。つまり、「民主的な国家」という表現が加えられることになる。「民主的」という側面をあえて全面に出す点は問題はないし、大切なことだと思う。しかし、「民主的な国家」という表現を加えることによって、現行法の「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」の部分が削除されている。
 「個人主義」を嫌う自民党という前提から考えると、「個人の価値をたつとび」とか「自主的精神に充ちた」とかは削除したいだろう。しかし、民主的な国家は個々人が自主的に関与しつつ、お互いの価値を尊びあうことによって可能となるのではないだろうか。勝手な考えかも知れないが、現代の教育の問題は、「個を尊ぶ」ということの意味が誤解されているから、起こっているのではないか。自らを尊ぶことを要求することは、同時に他者を尊ぶことである。それが本当の個人主義だと思うし、現行法の精神だと思う。
 クリスチャンの観点からいうと、「真理と正義を愛し」がなくなるのは残念である。真理と正義なしに民主的な国は生まれてこない。さらに「義務の重要性」を訴えるような人々があえて「勤労と責任を重んじ」を抜くのも、変に思える。
 うがった見方かも知れないが、「民主的」という言葉を用いることによって、何が「民主的」なのかわかっていない国民に対して、本当の民主的な意味(「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」)を隠そうとしているのではないか。つまり、選挙で大勝したものの意見に従うことこそ「民主的である」との誤解を用いることも可能である。民主的とは、最大多数の幸福を考えつつも、少数派の意見にも耳を傾ける姿勢である。そのように理解していない国民を「民主的」というBig wordを用いてだますことも、可能だろう。