きよめ派による聖書の神学的解釈

 ちょっと考えていることで、すこし浮かんだことがあるので、メモ。
 きよめ派の聖書解釈は、「みことばと聖霊による」ものである。そして、その解釈の幅の広さは、改革派系のものとは大きく異なる。改革派系の聖書解釈理解ならば、「そんな解釈はありえない」ことさえも、「みことばと聖霊による」ものとして受け入れてきている。このあたりはどのようにしたらいいのか。
 一つの規準は、古代教会から語られている、信仰の規範と愛の規範の原則。この二つの原則を越えなければ、どのような解釈も認められる、ということ。しかし、これだけでは、あまりにも「知的」側面ばかりが強調されている。何が足らないのか、と考えていた。
 そこに登場するのが、「聖霊による解釈」というものは単なる「リーダーレスポンス」ではないはず。きよめ派による聖書の神学的解釈のリーダーレスポンスを規定する何かがあるはず。そこで、今日、思い浮かんだのが、「聖霊による人格形成」である。つまり、聖霊による解釈が聖霊による解釈であらしめるのは、まさに、解釈者に聖霊による人格形成が現実となっているからである。聖霊による人格形成が行われているという文脈におけるリーダーレスポンスこそ、きよめ派による聖書の神学的解釈ではないのだろうか。
 まだ、メモ程度。背景をもっと考え、学ぶ必要がある。Childsは聖書の「正典的文脈」なるものを強調した。それは、改革派的な発想。しかし、そこには教会の文脈も当然存在する。しかし、正典的文脈と教会的文脈と共に、きよめ派の聖書解釈には、人格形成的文脈が含まれる必要があると思われる。なぜならば、聖霊は人格を建てあげる存在だから。
 う〜ん。まだ、まだ。しかし、一つの方向性が見えてきそう。よく考えたら、説教と説教者の関係は解釈と解釈者の関係と同じことなのかもしれない。

 Twitter of the Day

  • 07:06  朝です。今日はユースリーダーのためのセミナーで講演。創世記の話。
  • 07:06  先ほど、学生達が岡山へ車で出かけていきました。
  • 07:06  @miyachi0882 そうね、人生、むだ、おおいもんね。  [in reply to miyachi0882]
  • 07:18  @miyachi0882 ご心配なく。この世界で、神ほど無駄遣いをされた(される)方はいない。そう考えれば、少しくらいの無駄な行動は、気にしなくていい。  [in reply to miyachi0882]
  • 07:18  よし、キーノートのプレゼン、打ち込み終了。あとはトランジションだけ、ちゃんとやれば大丈夫。
  • 07:22  晴れのいい天気 http://bit.ly/arZXR2
  • 15:24  ユースセミナーから帰宅。出席者は少なかったんですが、参加者には満足感があったような気がします。よかった。
  • 16:26  よし、明日の早天の準備、終わり。
  • 17:29  よし、明日の旧約総論の準備はできた。
  • 18:19  久しぶりに自転車に乗る。二国から垂水経由で福田川を上り、戻ってくる。結構汗をかいた。
  • 20:44  シラ書からダビデとソロモンについての記述を見ている。紀元前二世紀頃の文書だが、私たちが一般にもっている意見とよく似た意見で、この二人の王を見ている。聖書のテキストはもうすこし微妙であるのだが。
  • 21:43  よし、ソロモンについて、すこし書き上がった。今日は、ここまで。
  • 22:56   きよめ派による聖書の神学的解釈 http://bit.ly/cJLpAe

Powered by twtr2src