ケープタウン決意表明(18)

最終回です。
 
結び
 
 ケープタウン決意表明もいよいよ結びとなりました。全体を振り返るようなことばが結びに書かれています。
 「神はキリストにおいてこの世をご自分に和解させた」(2コリント5:19)はケープタウンにおける会議のテーマのみことばでした。そこには、キリストの教会が、「この世に対する神の和解の愛の大使となる」ことへの召命を頂いていることが表されています。そして、会議そのものも、このテーマで開かれ、そして教会へのイエスの臨在の約束通りに(マタイ18:20、28:20)、主の臨在のうちにその会議が行われました。会議そのものは、聖書講解、全体講演、グループの話し合いなどがもたれましたが、その話し合いの中でくり返し語られた二つのテーマがありました。それは弟子として生きる事と和解です。二つのテーマを決意表明は次のようにまとめています。
 

・  徹底的で従順な弟子としての生き方の必要性。これは成熟に至らせるもので、数の成長だけでなく質における成長に至らせる。
・  徹底的な、十字架を中心とした和解の必要性。これは一致に至らせるもので、信仰と希望における成長と共に、愛における成長に至らせる。

 
 この世に対する神の和解の大使として教会が生きるために、つまり、宣教の民として生きるために不可欠なのが、弟子として生きる事と和解です。残念ながら、キリスト者の生き方が薄っぺらいものであって、キリストの弟子として生きていないという現状が世界中に蔓延しています。日本でもそうでしょう。また、和解が教会の中にさせなされていませんから、キリスト者がばらばらになり、愛に欠けている現実があります。宣教を妨げている原因の中心にあるのは、既に述べてきましたが、弟子として生きておらず、和解を現実としていない教会そのものなのです。
 これらのテーマは、現代の教会が患っている問題そのものを指摘していると共に、キリストが教会に対してくり返し、強調して語ったことでもあります。
 まず、弟子として生きなさい。これが第一の命令です。マタイによる福音書では、次のように書かれています。
 

わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(28:18−20)

 
すべての国民の中にイエスの弟子を作りなさいという命令が書かれています。弟子はまさにその生き方において、イエスのことばに従う存在です。「弟子訓練」という名前で時に矮小化されるような弟子ではありません。弟子が質において成熟すること、それが大切なことです。
 次に、イエスの弟子であることを世界中が知るために、互いに愛し合いなさい、という第一の手法です。
 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネ13:34−35)

 
互いに愛し合うことがまさに宣教の手法です。そして、和解をととして、合いにおける成長が求められます。
 このようにして、二千年前に、キリストが語られたことを、2010年10月、ケープタウンに集った者たちが聞きました。決して驚くべきことではありません。私たちは主である方、イエスのことばを確かにあの会議で聞いたのです。
 
A. 弟子を作りなさい
 
 弟子として生きるとはどういうことでしょうか。弟子を作るとはどのような人を育てることなのでしょうか。
 それはなによりもまず、キリスト者と呼ばれる人、キリストの名を自らのつけている人に対する以下の要求です。
 

自分の十字架をとり、自分を放棄し、謙遜と愛、誠実、寛容、しもべとして生きる道においてキリストに従うことによって、彼のようになりなさい。

 
「キリストの従う」、それも生き方において従う。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)への応答です。そのような生き方から、弟子を作るという宣教のわざが始まります。ですから、弟子となることこそ、宣教の最も基本的なレベルです。果たして、私たちはこのことばの通り、イエスの弟子となっているでしょうか、弟子への道を進んでいるでしょうか。
 
B. 互いに愛し合いなさい
 
 ヨハネによる福音書において、イエスは三度、「互いに愛し合いなさい」と言われています。
 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)
 
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(15:12)
 
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(15:17)

 
そして、大祭司の祈りにおいて、一つになるようにとくどくどと祈っておられます。
 

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(17:21−23)

 
そして、互いに愛し合い、弟子たちが一つになることは、先にも述べたように宣教的なわざです。弟子たちを通して、世界がイエスを送られた神を知るに至るからです。わたしたちの教会も、このことに集中することがなによりも求められるのではないでしょうか。私たちの歩みが、世界宣教を助けも妨げもし、そしてイエスが神であることを人々に知らしめることを助けも妨げもするのです。
 「互いに愛し合いなさい」という教会への招きは、イエスからだけのものではありません。使徒たちも同様に、何度も呼びかけています(エペソ4:1-6、コロサイ3:12-14、1テサロニケ4:9-10、1ペテロ1:22、1ヨハネ3:11-14; 4:7-21)。ですから、
 

なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。(1ヨハネ3:11)

 
とあるように、イエスの弟子たちがその一番最初から聞いているその教え、生き方に従う決意を、そのような生き方への献身を私たちはしようではありませんか。それこそが、宣教への献身です。
 
 最後の文章はわたしたちの祈りです。私たちが愛する主のため、そして主のゆえにわたしたちが仕えようとする世のために、この祈りを捧げようではありませんか。
 

父と子と聖霊なる神の御名によって、そして神の限りない憐れみと救いの恵みに対する信仰を唯一の土台として、私たちは心から切望し、祈る。聖書にもとづく弟子としての生き方によって、改革が起こり、キリストのような愛によって大変革が起こるようにと。