ケープタウン決意表明(17)

 いよいよ、最後の一つ前。本文としては、これが最後です。
 
IIF. 宣教の一体性を目指す、キリストの体の内部における協力
 
 エフェソの信徒への手紙2:14−18において、クリスチャンの一致について見事に描かれています。
 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

 
ここでは二つの和解(平和)が描かれています。それは「神との和解」と「お互い(特にユダヤ人と異邦人)の和解」です。しかし、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」(2:16)とあることからわかるように、神との和解とお互いとの和解とは一つの出来事であり、分離することはできません。十字架という一つの出来事によって、神との和解が成立し、ユダヤ人と異邦人からなる和解された神の民が生み出されたからです。
 この十字架によって実現した二重の和解の現実こそが、クリスチャンが一体となって生き、協力して働くことを可能とする土台なのです。この土台を信仰をもって受けとめ、全力を注いで協力して働くならば、そのような教会は十字架のもつ「神との和解、お互いとの和解」の力、人間には生み出すことができない、神由来の、そして私たちの時代と文化と全く対抗するような力を証しすることができます。
 しかし、実際はどうでしょうか。協力することができない、不一致をさらけ出しているのが、現代の日本の教会ではないでしょうか。かつては「一致していた」とよく言われますが、それはこの「二重の和解」による一致ではなく、声の大きなボスを中心とした一致でした。そのようなボスが消えてしまった現代、教会は一致して協力することができなくなっています。しかし、それは同時に、本当の意味でのこの「二重の和解」に立った一致を求めることができる時代となっている可能性も示しているのです。
 
1. 教会における一致
 
 現代の世界は明らかに分断されています。民族、宗教、国家、歴史、あらゆるものが分断の源となっています。そのような世界に対して、「分断された教会」はメッセージを語る事ができるでしょうか。たとえ、和解のメッセージを語ったとしても、私たちの生き方がそれを否定しているのです。宣教の真実性と有効性が大きく阻まれているのは、実は「教会が和解された者としての一致のうちにいきていない」からではないでしょうか。
 では、教会の一致を求める私たちは、今、何をするべきでしょうか。
 まず、現状、教会や団体が分断されており、それらが分断を招きやすい性質をもっている現状を嘆くことです。それとともに、エフェソ4:1−3にあるように歩むべきです。
 

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

 
二重の和解という神の招きにふさわしく歩むように「努める」ことです。柔和と寛容と忍耐が必要です。キリストが十字架で生み出して下さった「平和のきずな」を実現するために歩むことが不可欠です。この招きへの従順こそ、何よりも分断を嘆いている教会に求められていることです。
 それとともに、教会の本質的な一致は「霊による一致」であることを認識する必要があります。見えるところで同じになることが一致ではなく、聖霊によって結び合わされた一つの神の民として、お互いがそのからだに必要不可欠であると認め続ける点における一致です。同じようになる必要は一切ありません。しかし、実際に目に見えるあらゆることで一致すれば、共に進むことができれば、宣教の上で力となり、福音は広く人々に認識されるでしょう。このような「証しと宣教のために、可能な限りどこででも、和解と一致の回復に至る道を追求」し、分断するという誘惑に抵抗すべきです。
 
2. 世界宣教におけるパートナーシップ
 
 日本のプロテスタント教会を見る時に、その信徒の数が少ないにもかかわらず、そこに200余の教団、教派が存在している現実に驚きます。なぜ、これだけの教団、教派が誕生したのでしょうか。そこにはいろいろな歴史がありますが、海外からの宣教師が、それぞれの海外のそれぞれの教団、教派から派遣されてきて、それぞれの宣教師が独自の教団を形成していったことにも、その理由の一つを見出すことができます。これは、「自分自身の(民族、教派、神学などにおける)アイデンティティを優先させ、それを守るような仕方で宣教に従事してきた」という現実を映すものだと思います。厳しい言い方かも知れませんで、唯一の主であり、主人であるイエス・キリストに自らの意欲や好みを従わせることをせず、これらを優先してきた結果である、と非難されても、しかたがないでしょう。キリストがすべてのすべてであり、すべての中心です。そのように信仰告白するお互いが、戦力、実践、一致においても、主イエス・キリストに対する共通の服従の姿を実現する必要があります。もちろん、「一つの教団になればいい」という単純なものではありません。教団、教派が違ったとしても、世界宣教において適切なパートナーシップを結び、共に主に従っていく必要があるのです。
 もうひとつ、現代の世界宣教の変化について知っておくことが必要です。かつては欧米諸国から非欧米諸国へと宣教師が遣わされてきました。このパターンしかなかった、と言っても間違いではないでしょう。しかし、いわゆる南側諸国(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ)におけるキリスト教の振興にに伴い、そこからも数多くの働き人が世界宣教に遣わされていくようになりました。しかし、これは、世界宣教の責任が「世界のある地域の教会から別の地域の教会に渡った」ということではありません。下手をすると、かつて欧米諸国が持っていた「われらこそが世界宣教を進めることのできる唯一の国、民族である」という態度が、単に他の国に移っただけにすぎないからです。むしろ、私たちが知らなければならないのは、「どの民族グループも国も大陸も、単独では大宣教命令を完遂するという独占的な特権は主張することはできない」という事実です。それは神だけがなしうることです。そして、世界中のあらゆる諸国が、それぞれに与えられている賜物に応じて、パートナーシップを結びつつ、世界宣教へと進むべきなのです。ですから、たとえ、日本のキリスト教は小さなものであったとしても、パートナーシップを結びつつ、世界宣教に携わる特権と責任が与えられているのです。
 それでは、世界宣教におけるパートナーシップを実現していくために、なにが求められているのでしょうか。
 まず、お互いが「キリストに服従する者として、疑いの心や競争心や誇りを捨て去り、神が用いておられる人々から喜んで学ぶ姿勢をとる」ことです。わたしたちの招きは、一つに結び合わされることへの招きであり、お互いを認めて受け入れる招きです。神のみこころである世界宣教のために共に働くように招かれています。その招きにふさわしい生き方、実に学ぶ姿勢こと、なによりもひつようです。
 つぎに、これまで海外宣教の際に起こった悪しき歴史を覚える必要があります。それは、資金力のある者が意志決定を行ってきた、という事実です。その思慮に欠けた資金注入によって、教会は堕落し、分裂し、宣教地における信頼を失ってきました。資金力のある人の好みが押しつけられ、宣教地の現状とは乖離した宣教がなされてきてしまいました。しかし、このような状態は、聖書が描いている宣教におけるパートナーシップではありません。受けることと与えることにおいても相互依存です。喜んで受け、それを用いる人々とがいないならば、真の意味で与えることなどできないからです。諸国がキリストにある友、真実のパートナーとなることができるよう、敬意と尊厳をお互いに抱きつつ進むことができるように、リーダーは求められているのではないでしょうか。
 
3. 男女のパートナーシップ
 
 神は人を男と女に創造されました。そして、男と女という共同体として、被造物を神のかたちとして治める使命を与えられました(創世記1:26−28)。そして、創世記3章において、神に対して背く際も、男女が共に主の背いています。
 

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(創世記3:6)

 
テキストに記されているように、男はずっと女と共にいて、女とヘビとの会話を聞いており、共に誘惑を受け、共に神に背くことを決めています。そして、キリストのわざは、信仰によって、男と女に等しく救いを与え、一つの民としています。
 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:28)

 
そして、約束された聖霊も、ペンテコステの日に、男女共に等しく与えられています。
 

神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒2:17−18)

 
このように、男女共に、神から使命を与えられ、神に背き、キリストによって神の民とされ、聖霊が注がれています。
 ですから、性の違い、そして結婚に関する状況の違いにかかわらず、すべての神の民が、「キリストの賛美と栄光のために、他の人の利益となるように神の賜物を用いる責任」があります。
 

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。(1ペテロ4:10−11)

 
それを言い換えるならば、「私たちは皆、神によって教会が召されている奉仕の全領域のために、神が与えてくださったすべての賜物を、すべての神の民が行使できるようにする責任も負っている」ことを意味しています。あの人には賜物を行使することはできるが、別の人はそれができない、というような状況を作り出してはいけないのです。ある人の働きを尊ぶ一方で、他の人の働きをさげすんではいけないのです。パウロはテモテに
 

あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。(1テモテ4:14)

 
と自分の賜物を軽視しないようにと忠告していますが、これはすべてのキリスト者に対しても、同様であるべきなのです。そして、
 

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(エペソ4:16)

 
とあるように、キリストのからだ全体を成熟させるため、他者に仕え、他者としっかりと結び合うために召されているのです。ですから、賜物を用いることは地位や権利を要求するものではなく、神から委ねられた責任です。そして、すべての神の民にこの召しと責任が与えられています。まさに、「全教会が全世界に仕える」ことが聖書の語る宣教のビジョンです。
 このことを受けて、マニラ宣言では次のように述べています。
 

御霊の賜物は、男女の区別を問わずすべての神の民に与えられていることを確認し、福音宣教におけるすべての神の民の協力は、共通の利益のために歓迎されなければならないことを確認する。

 
教会における様々な協力の側面がありますが、男女のパートナーシップがここで語られていることに注目していただきたい。世界の教会の中で、意見の違いが明らかに見られる分野の一つの男女のパートナーシップの問題があります。特に女性がどのようにその賜物を行使するのか、について意見が分かれています。
 教会の歴史を見るとき、ケープタウン決意表明にあるように、「女性たちが男女双方のために神の務めをなし、世界宣教に莫大な犠牲的貢献をしてきた」事実を見出します。そして、このことはあらゆるひとが同意できることです。しかし、聖書に忠実であろうとする人々のあいだで、女性が教えることや説教することを否定する否定する人たち、教えることや説教することを認めるが、男性の飢えに単独で権限をもつことを否定する人たち、そして、女性男性双方が、与えられた霊の賜物を行使することができると示唆する人もいます。様々な聖書の箇所をどう理解し、どう解釈するか、その幅が広いことが問題の原因です。日本の様々な教会においても、この点では意見の違いが見られます。
 ケープタウン決意表明はこの違いが簡単になくなるものではない、ということを理解しています。ですから、論争している人たちの間で糾弾するのではなく、受け入れ合うことを、聖書を共に注意深く研究することを、痛みには思いやりを、不正には適切な対応を、兄弟姉妹のうちにみられる聖霊の働きへの抵抗心には悔い改めを求めています。そして、何よりも、キリストのしもべのすがたを映す者となるように求めています。その上で、ケープタウン決意表明は、女性がより用いられること、もっと広く奉仕の機会が与えられること、彼女たちが神の召しに従うことができるように道を開くことを求めています。
 
4. 神学教育と宣教
 
 コリントの教会においては、分裂をひき起こす可能性のある論争がありました。それは、パウロにつくか、アポロにつくか、という問題でした。そこで、パウロは次のように語っています。
 

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(1コリント3:6)

 
ここでパウロは宣教を行い、教会を生み出した働き人です(植える)。その後、アポロがそこに来て、教会を育成していきました(水を注ぐ)。神のわざとしてのこの二つの働きには密接なパートナーシップがあることをパウロは強調しており、どちらかの優位を主張してはいません。事実、コロサイ1:28を見ると、
 

このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

 
パウロ自身も教えの働きに加わっています。同様に、マタイ28:19−20において、
 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

 
と語り、弟子を育てることの中に、神の民の入り口である洗礼を授けることと神の民としての成長に必須なイエスの語られたことを守るように教えることの両者を含んでいます。ですから、伝道と神学教育は分かつことができないものであり、両者共が宣教に欠くことができないのです。
 神学教育には二つの目的があります。ひとつは、「牧師・教師として教会を導く人々を訓練する」ことであり、神のことばの真理を教えることができるように整えることです。もう一つは、「すべての神の民を整える」ことであり、彼らが神の真理をあらゆる社会的文脈の中で理解し、適切にそれを伝える宣教のつとめに携わることができるようになるためです。このことを通して、神の宣教に仕える教会の宣教に仕え、そのために教会の宣教を力づけ、教会の宣教と共に歩むのです。ですから、神学教育とは、単なる知的な教育(聖書を教える、教理を教える)だけではありません。ケープタウン決意表明は、「神学教育は霊の戦いに取り組む」とあるように、包括的な、神の国のために進む戦いです。まさ、
 

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ・・・(2コリント10:4−5)

 
とあるように、神の力による神学教育なのです。
 神学教育に対して、具体的な提案は四つあります。まず、神学教育は宣教的であるということ。つまり、神の宣教にたずさわる教会の宣教のための働きであり、単なる学術的な働きに収束してはなりません。つぎに、神学教育はあらゆる宣教の取り組みと、地域にかかわらずパートナーシップを組むこと。三つめに、それぞれの神学教育がかかわる教会が直面している必要と機会に役立つことはなにかを、宣教の観点からチェックすること。最後に、神学教育の中心には聖書を中心に据えるということ。伝道者はそのメッセージと権威の源は聖書であることを確認しなければなりませんし、キリスト教神学の中核には聖書の研究があります。それゆえに、牧師・教師がなにより聖書を説き明かし、教える働きに整えられるようにと神学教育は専心すべきです。