教会のわざとしての伝道:派遣

2012年大阪教区伝道講座ではなした原稿です。前にはアウトラインでしたが、これがほぼしゃべった内容です。どうぞ。
 

エスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(ヨハネによる福音書20:21)

 
I. 礼拝と教会
 
 日本イエス・キリスト教団の礼拝順序を含めて、礼拝には一般的に以下のような順序がある。
 
(1) 神の招き
(2) 悔い改め
(3) 神のことば
(4) 感謝
(5) 派遣
 
礼拝において、主の日にキリスト者たちは神によって集められ(神の招き)、神に礼拝をささげ、神によって遣わされていく(派遣)。礼拝の順序は漠然とあるものではなく、主日ごとに礼拝を行う礼拝堂に集められ、それぞれの場所に祝福されて遣わされていくということを表している。
 さらに、この礼拝順序は、教会がどのような存在であるかをも反映している。教会には四つのしるしがあり、それらは「一つなる、聖なる、公同の、使徒的」である(A・E・マクグラスキリスト教神学入門』神代真砂実訳、教文館、2002年、673−688頁)。ここでは、そのうちで、「使徒的教会」に注目したい。「使徒的」とは、単に十二使徒の伝統を引き継ぐという意味だけではない。マルコによる福音書3:14-15を見てみよう。
 

そこで十二人−−使徒たち([ギリシア語]アポストルース)とも呼ばれた−−をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに彼らを遣わして([ギリシア語]アポステッレー)、宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(私訳)

 
つまり、「使徒的」とは、「(神から)遣わされた」ことを意味する。聖書で「教会(エクレシア)」が「呼び出された(エッカレオー)」という語と深い関わりがあることを鑑みると、神の民である教会、「使徒的教会」とは、神によって「招かれ」、神によって「遣わされた」存在であることがわかる。そして、礼拝順序の始めの「神の招き」と終わりの「派遣」はまさにこの使徒的教会の特徴を表している。つまり、礼拝は教会がどのような存在であるかを端的に表しており、毎主日の礼拝を通して教会はそのことを思い起こしているのである。
 「教会のわざとしての伝道:派遣」というテーマは、礼拝における派遣を手がかりにしつつ、主によって世界に派遣される教会のわざについて熟考することをわたしたちに求めている。しかし、派遣される教会を考える前に、まず教会を派遣する神ご自身について知っておく必要がある。なぜならば、伝道を含む宣教そのものはまず第一に神のわざであるからだ。
 
II. 神のわざとしての宣教
 
 神のわざとしての宣教を考えるにあたって、2010年に南アフリカケープタウンにおいて開催された第三回ローザンヌ世界宣教会議を通してまとめられたケープタウン決意表明を見てみよう。
 ケープタウン決意表明は宣教について次のように定義している。
 

神の宣教の業は神の愛から流れ出る。神の民の宣教の業は、神と神が愛するすべてのものに対する私たちの愛から流れ出る。世界宣教とは、私たちに向かって、また私たちを通して、神の愛が流れ出ることである。(『ケープタウン決意表明』日本ローザンヌ委員会訳、いのちのことば社、2012年、13頁)

 
 まず、宣教の業は愛から流れ出る。神の宣教の業は神の愛から、神の民の宣教の業は私たちの愛から流れ出る。そして、教会は、第一に自分たちに向かって溢れ流れる神の愛を受ける存在である。神の恵みの先行性がまず語られている。しかし、そこにとどまらない。教会はその愛を自分たちを通して世界に流れ出るように招かれている。つまり、信仰による応答と愛の従順によって、神の愛を実際にその場所で生きることこそ教会の使命である。宣教に関するこの定義は、次のみことばをその土台としている。
 

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。・・・わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。(1ヨハネ4:9, 19)

 
このようにして、先行する神の愛とそれに対する応答としての愛のわざこそが聖書的な宣教理解であって、教会の宣教という愛のわざはあくまでも世界を愛する神の愛によってはじまり、この神の愛が流れ出ていくものである。従って、「教会の宣教」から宣教を考えはじめたとしたら、最も本質的なポイントである「神の愛、神の宣教」を横に置いてしまう危険性がある。事実、わたしたちの宣教理解もそのような要素がなかっただろうか。
 
 さて、神は人間を含む全被造物を愛するその愛のゆえに、アブラハムを選び、イスラエルを通して世界に関わってこられた。そして、ついに御子イエスを遣わされ(ヨハネ20:21)、その誕生、生涯、十字架、復活、昇天によってこの世界を愛する愛のわざ、宣教のわざを行われた。この神の一連のわざ(神の宣教)をここで詳細に語る事はできないが、『せかいは新しくなる』(日本聖書協会文、藤本四郎絵、みんなの絵本シリーズ36、日本聖書協会、2011年)がこの神のわざを子どもにもわかるようにまとめてくれている(大人のための聖句リストと解説もついている)。さらに、『月刊ベラカ』で連載中の「聖書は『ほんとにおもしろい』〜みころばの鳥瞰と虫瞰」でも、この神のわざについて概論している(連載中)。ぜひ、これらをご参照いただきたい。
 神の宣教のわざの中で特に注意しておきたいのはイエスの昇天である。昇天とは、単に「地から去り、天に上り、再臨するときまでそこで待っておられる」ことを表しているのではない。
 

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。(エペソ1:20−21)

 
キリストご自身が今も生きて、「主として、すべての歴史と被造物を治めている」(『ケープタウン決意表明』20頁)ことを意味する。キリストによる全世界の統治はイエスの昇天の直接的な記述のないマタイ28:18−20にも記されている。
 

わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。

 
エスは天地におけるあらゆる権威を授けられている。ユダヤ人の王、そして全世界の王として、すべての歴史と被造物をその主権下に置かれている方として、弟子たちに対して、「すべての国民を弟子とする」命令を与えておられるのだ。
 さらに、ペンテコステにおけるペテロの説教でも、イエスの昇天が取り上げられており、天地の王であるイエスが父から聖霊をたまわり、そして弟子たちの上に聖霊を送られたと記されている。
  

 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、
 
  『主はわが主に仰せになった、
   あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。
 
 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである。(使徒2:33−36)

 
使徒行伝2章のペテロの説教を見ると、弟子たちの上に聖霊が下ったことはヨエル書の預言の成就だと語られている(2:16−21)。しかし、ペテロがこの説教で伝えたかった中心的なポイントは、「聖霊が下ったこととイエスの十字架と復活と昇天はどのような関わりにあるか」である。そして、次の三つの点を挙げている。まず、イエスの十字架は神の計画に基づくものである(2:22−23)。次に、ダビデが預言しているように(つまり、神の計画に示されているように)、神はキリストを死人の中から復活させた。自分たちはそのことの証人である(2:24−32)。最後に、聖霊が下ったのは、これもダビデが預言しているように、イエスが昇天、すなわち神の右の王座に着座され、神によって全世界の統治者(「主またキリスト」)として立てられていることの証拠である(2:33−36)。このようにして、ペテロは、神がキリストを通して(その生涯と十字架と復活と昇天を通して)「神のご支配」(つまり、「神の国」もしくは「天国」)をこの地に計画通りに実現されたしておられると主張しているのである。
 そして、イエスの王権支配は聖書の一貫した主張である。現実の世界を見て、「神などいない」と感じる人は多くいるだろう。しかし、私たちがどのように理解するかにかかわらず、昇天されたイエスはこの世界を王として治めておられる。そして、神はキリストを通して聖霊によって宣教の業、神の愛の業を世界で、すべての被造物の間で行っておられるのだ。キリスト者となるとは、昇天されたイエスによる王的支配という観点から、新鮮にこの世界を見るということも含まれている。残念ながら、そうでない場合が多いようではある。
 しかし、神の愛のわざに人間が全く関与していないわけではない。いや、むしろ、人間の応答を神は求めておられる。
 

そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。(エペソ1:22−23)

 
ここで述べているように、キリストを通して聖霊によってなされる神の宣教のわざは、「キリストのからだ」である教会(もしくは「神の民」)を通して、今、行われているのである。従って、教会はその宣教のわざを通して「神の宣教のわざ」に参画するのである。神のわざと離れた教会の宣教のわざはありえないし、もし神のわざと離れていたとしたら、教会によってなされているそのような働きを「宣教のわざ」と呼ぶべきではない。
 
III. 教会のわざとしての宣教
 
 神の宣教のわざと教会の宣教のわざの関わりが見えてくるとき、ヨハネ20:21のみことばの意義が明確になってくるだろう。
 

父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。

 
神がキリストを遣わされたように、今、キリストはご自身の弟子、つまり教会を宣教の為にこの世界に遣わしている。そして、「キリストのからだ」である教会は、イエスご自身が担った役割の多くを、今、この世界で担う。その一つとして、「天と地(つまり、神と被造物)を結びつけるはしご」がある。イエスご自身が天と地を結びつけるはしごであったからだ。
 

よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。(ヨハネ1:51)

 
つまり、天におられる神のみわざを地においてイエスご自身がなされてきたのである。そして、イエスによって地に遣わされている教会も、天と地を結びつけるはしごとして働くように召されている。つまり、神はご自身の宣教の業に参画するようにと教会を招き、ご自身の宣教の地へと派遣される。そして、宣教の地へ遣わされている教会は、遣わされているその場所で、神の宣教のわざに加わるのである。キリストのからだとして、遣わされている地で「キリストのわざ」を行うのだ。
 
 神から遣わされて、神の宣教の業を行う教会、神の民のモデルとなるのがアブラハムである。
 

 主はアブラムに言われた、
「あなたの国を出て、あなたの親族に別れ、あなたの父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくするのです。さらに、あなたは祝福となりなさい。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろうのです。そして、地のすべての部族があなたによって祝福されます」。(創世記12:1−3[私訳])

 
主はアブラハムを特別に選ばれた。しかし、選ばれたのは彼が特別な地位につくためではない。彼だけ何か得をするわけではない。彼は他者のために選ばれた。そして、他者のためにアブラハムは二つの命令を主からいただいている。
 まず、神のことばに従って、使命の地へと離れ、出て行くこと(12:1)。アブラハムは、父テラと共にウルを旅立ち、その途上であったハランの地で、父の意志を継いで、カナンの地に行くように神から招かれた。自分がここちよくいることのできる場所から離れ、そこから出て行くことを神から指示されたのである。そして、アブラハムがこの命令に応えるならば、主はアブラハムを祝福すると約束されている(12:2)。
 しかし、主の命令はそこにとどまっていない。主の祝福を受けたアブラハム自身が、今度は祝福となるように命じられている(12:2)。それは、「神がアブラハムを祝福した者を祝福することを通して、地上の氏族すべてが神の祝福を受ける」という神の大きなご計画を実現するためである。このようにして、神はアブラハムを遣わし、遣わされたアブラハムを通して、彼が置かれている地で神ご自身のわざ(つまり、地のすべての部族を祝福すること)を行おうとされたのである。具体的には次のように考えることができる。神に祝福されたアブラハムが旅と寄留の生活の中で、様々な人に出会う。そして、アブラハムに出会った民は、神がアブラハムを祝福しているのを目の当たりにし、それゆえにアブラハムを祝福する。その時に、神の祝福がアブラハムを介して、アブラハムを祝福した民へと届くのである。このようにして、創世記1:28で語られている神の豊かないのちの祝福が、アブラハムを介して、世界中に広がっていくのである。
 このようにして、アブラハムは神と人との祝福の仲介者という大きな働きをなす。しかし、あくまでも祝福は「神の祝福」である。祝福を取り次ぐ「アブラハムの宣教」は、祝福が神に属するものである限り、「神の宣教」なのである。そして、自らを通してなされる神の業に参画するために、アブラハムは神の派遣のことばに応えて、使命の地へと離れ、出て言った(12:4)。
 なぜ、アブラハムはハランにとどまらず、カナンの地へと進まなければならなかったのだろうか。そこにとどまっていてはいけなかったのか。それは、カナンこそ当時の交通の要所であり、そこに住むならば、あらゆる民に出会うことができ、結果的に、神の祝福がそれらの民に届くからである。事実、創世記12章以降、アブラハムはエジプトとパロ(12:10−20)、カナンの地の民(14章)、ソドムとゴモラ(18:16−33)、モアブとアンモン(19章)、ゲラル(20章、21:23-34)、ヘテ人(23:章)など数多くの部族と関わりを持ってきている。これらは、創世記10章にリストとしてあげられているノアの子、セム、ハム、ヤペテの子孫の一部である。神は、洪水からの再建の一環として、もういちど世界中に主の祝福を満たすために、アブラハムをカナンの地へと遣わされたのである。
 教会は、このアブラハムの使命をもって、全世界に遣わされている。神の民であるイスラエルに与えられた使命を、神の民である教会がいま、世界中で果たしているのである。そして、教会は「キリストのからだ」として、アブラハムの子であるキリストを通して聖霊によってなされる宣教のわざに参画するように招かれ、遣わされている。だからこそ、教会は、神が愛されるその愛し方をもって、この世界を愛する使命が与えられている。ケープタウン決意表明は教会の宣教を次のように記されている。
 

神の愛は神のすべての被造物に及ぶ。私たちも、神と同様のすべての領域において、神の愛を反映するような仕方で、愛することを命じられている。(『ケープタウン決意表明』14頁)

 
遣わされている教会こそが、神がこの世界を愛するその愛を最もあざやかに現わす「ホットスポット」である。神の愛の最前線として、神の愛を受けつつ、目の前の世界にこの神の愛を流れ出していく使命が教会に与えられている。そして、まさにそのために、教会は諸国民の中に、そして世界に遣わされているのである。
 アブラハムの選びと宣教の使命を熟考する時、わたしたちの救い(神の民に加えられる)ことと宣教の関係を再考する必要があることがわかろう。イエス・キリストに信頼することによって罪の赦しや心の平安が与えられることはすばらしいめぐみである。しかし、「わたし個人の問題の解決」という意味での救いですべてが完結してしまう傾向はないだろうか。アブラハムの選びは宣教の為である。アブラハム個人の問題である子どもが与えられて完結するものではない(もちろん、個人の問題の解決が大きな広がりを持っていくのだが)。わたしたちの個人の問題の解決でわたしたちの信仰生活が終わってしまい、そのあとはただ習慣のように日曜日に礼拝に来るだけ、日曜日だけのキリスト者になってしまっていたとしたら、実は神の民に加えられた本来の目的が果たされていないのである。高価なコンピュータを購入して、そのまま倉庫の奥に眠っている状態である。「救われしは救わんがためなり」ということばは真実である。
 
 ここで、教会が遣わされた場所で歩むべき「愛」についてのコメントを入れておく(『ケープタウン決意表明』13−15)。
 まず、愛とは神からの贈り物(ローマ5:5)であると同時に、神の「命令」である(2コリント5:14)。与えられるものであり、従うべきものである。人間の内側から生み出されるものではない。その一方で、感情に限定されるものでもなく、わたしたちが意志的に、かつ継続的に取り組んでいくべきことでもある。「愛するから愛される」ではなく、「愛されているから愛する」ものである。そして、「愛すことができるようになったら愛する」ものでなく、「愛するならば愛せるようになる」ものである。次に、愛は約束に基づいて自らを与え尽くすという行動に裏打ちされている。旧約聖書において、「神を愛せよ」という命令が「他の神々や偶像を捨てよ」という命令と結びついていることを思い起こしてほしい。神の愛が御子をも与え尽くすという行動に裏打ちされている事実を思い起こしてほしい。程度の違いはあれ、「自らを与える」という行動なしの愛はない。三つ目に、愛はその人の存在全体、その行動のすみずみに行き渡るものである。そして、神のすべての被造物に広がり及ぶものである。従って、どんなものであっても「偏愛」は愛ではない。最後に、愛には四つの側面がある。神を愛する(申命記6:4−5)、敵を含む隣人を愛する(マタイ5:43−45)、互いに愛し合う(ヨハネ15:12)、御子を送られた神の愛をもってこの世を愛する(ヨハネ3:16−17)。これらは困難なことだろう。しかし、アブラハムが祝福されているから彼を通して神の祝福が流れるようことを思い起こしてほしい。神に選ばれ、召されているわたしたちは確かに神に愛されている。だから、この愛は私たちのうちからあふれ流れうる。
 
IV. いくつかの具体的な提案
 
 以上の議論を踏まえて、各個教会における伝道についてのいくつかの具体的な提案をあげる。
 まず、くり返し語られたとは思うが、「教会」とは「教会堂」ではない。「教会」とは神によってこの世界に遣わされている「神の民」である。従って、今置かれている場所で、私たちは教会として生きることが大切である。つまり、日曜日の午前10時にどこにいるのか、なにをしているか以上に、月曜日から土曜日までどこにいて、何をしているのかが教会にとって重要となってくる。アブラハムがカナンの地でなにをしていたかを思い起こしてほしい。
 次に、これまで教会堂に連れて行くことが伝道であると考えられる傾向があった。しかし、本当の伝道とは、遣わされているところで神の民が人々を愛することである。そこで、神の民が神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、この世を愛することである。そして、ことばによって信仰を証しすることよりもむしろ、神の愛をもって遣わされている現場の人々を愛していくことによって伝道がなされていく。ここでも、月曜日から土曜日、それぞれが遣わされている場所こそが伝道の現場であることがわかる。家庭、地域、職場、学校で伝道がなされるのであって、教会堂で伝道がなされているのではない。わたしたちが実際に遣わされているその現場で、カナンのような交通の要所で様々な人と関わる事によって伝道がなされるのである。そこで、祝福が拡散していくのである。「永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ」のだ。だから、教会堂に連れて行くことは、伝道のはじまりではなく、伝道のゴールである。逆になってはいないだろうか。
 三つ目に、伝道とは、あくまでも神のわざである。神が愛されているその愛に、遣わされている「教会」が参画し、神の愛を「受けて」、それを「流れ出していく」ことである。「神が愛されているから、その愛を受けて、その愛をもって隣人を愛する」という基本線をくずしてはならない。恵みに対する応答として、遣わされているところで伝道するのである。東日本大震災において教会を通し、教会員を通して地域の人々に救援物資が届けられたが、そこでなされた姿こそが伝道のモデルである。神の愛を、救援物資のように、わたしたちが置かれている地域の人にお渡しする。神の愛による「神の愛のおもてなし」が重要である。さらに、個人ではなく、教会が神の業に参画するように招かれていることを忘れてはならない。つまり、遣わされている場所での個人プレー的な伝道では、神の愛を十分に流れ出すことはできないのだ。遣わされているその現場で、教会が(数人の者が)協力して、神の愛の業に参画する必要がある。阪神淡路大震災において、それぞれの地域で信徒が自発的に集まり、さらにそこにそうでない人が集まって、助け合ったり、共に祈り合ったりした状態こそが、本来あるべき伝道形態である。「ことばによる伝道」を重んじすぎたために、信徒が伝道から離れていったのかも知れない。また、教会がなす神の愛のわざは、世間で目立つような大々的なものではない。むしろ、地域の人々や行政の目の届かない所での小さな愛のわざこそ、教会に求められており、かつ日本の教会に現実的に実行可能な愛のわざである。大きな何かをする必要などないのだ。
 四つ目に、神がイエスを遣わされたように教会がこの世界に遣わされているならば、神の愛の業に生きる教会に対する迫害と艱難は避けられない。教会の宣教のわざは十字架の道である。イエスの艱難と十字架を通して神のわざがなされていったように、教会の艱難と十字架を通して神の愛のわざが実現されていくのである。「よいことをやっているのに報われない、むしろ妨害される」と嘆くのは間違っている。「イエスが王として統治しておられるのに、なぜキリスト者が迫害されるのか」という理解は適切ではない。教会の艱難と迫害は当然起こるべきことであり、それゆえにいのちを失うことさえあるのだという覚悟が求められる。迫害をむりやり巻き起こす必要はないが、それが一切起こってこないのは信教の自由が与えられているからだ、と単純に喜んでいいのだろうか。ひょっとしたら、教会が遣わされているところで宣教のわざに励んでいないからかもしれない。そして、1ペテロ2:18−25にあるように、まさにわたしたちの傷によってこの世界で神の宣教のわざが前進していくのである。キリストの苦しみのなお欠けたところ(「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」[コロサイ1:24])を、わたしたちの受ける受難を通して補っているとも考えることができる。
 最後に、教会堂に教会が共に集まる礼拝は重要である。遣わされている所で小グループで集まって礼拝をすればそれで事足りるというのは、間違いである。神の民が「神に集められ、そして遣わされていく」その現実を絶えず思い起こし、神の福音を日々現実のものとして味わい続けるためには公同の礼拝が必須である。パンとぶどう酒に共にあずかることによって、神の食卓に集められたひとつの神の民であることを覚えることなしに、遣わされているところで共に神の愛の業に参画することは不可能である。神の宣教のわざをみことばを通して「共に」思い起こし続けることなしに、そのわざに応え、教会として共に参画することなど不可能である。それぞれの家庭、地域、職場、学校に遣わされて、それぞれの場所でのわざは多種多様にわたる。そのような場合、よく似た環境や働きのものどうしが共に集い、励ましあうことは確かに有益である。しかし、自分とは全く異なった形で、神のわざに参画している者たちがいることを公同の礼拝で集められて、確認するとき、「個人プレーによる伝道」ではなく、「それぞれの場所に遣わされている教会の伝道」をすべての民が味わい知ることができるのではないだろうか。