慰めのことば

 今日、友人の葬儀礼拝で読んだ慰めのことばを記録します。ちなみに、全く無意識のうちに、最初の「八ヶ月」を「八年」と読み違えてしまい、全く意味のわからない文章になってしまったようです。まあ、多くの人が、ちゃんと読み替えてくれましたが。
 
慰めのことば
 
 わたしがこの地上にその生を受けた時、仁科真人先生は8ヶ月の赤ん坊でした。それ以来、49年間、近くで、遠くで、歩んできました。
 子どもの頃、大人の礼拝中によく一緒に教会で遊びました。中高生の時、ジュニヤチャーチやヤングチャーチで一緒、なにかと仲間でした。彼は中学に入ったらすぐ洗礼をうけましたが、わたしはぐずぐず高校2年まで受けませんでした。いまだから言えますが、彼は女の子に人気がありました。若干、優柔不断なところもありましたが。それを見ていたわたしは、すこしひがんでいました。機関誌であった「小羊」を一緒に印刷したりしました。わたしは駄文ばかりを書いていましたが、彼は、新会堂が建った年、「ここはわれらのアンテオケ」という詩を書いていました。
 大学になって彼は名古屋に行きました。次の年、わたしは京都に行きました。そして、兵庫県ではなく、滋賀県の湖西で一緒に中高生キャンプの奉仕をしたり、青年部の働きに参加しました。一緒にギターを弾いたり、賛美をしたり。彼が大学卒業後、京都の舞鶴に移ってからもそれは続きました。
 気がついたら、二人とも、フルタイムでの働きのために献身していました。そして、1989年、彼は関西聖書神学校に、わたしはアズベリー神学校へ行きました。あることで、わたしが本当につらい経験をした時、それを見ていた彼はわたしのために「あれはおかしい」と憤ってくれました。わたしがことば足らずの文章を書いたとき、「あれはだめだよ」と注意してくれました。わたしが一年間帰国して、関西聖書神学校で研修をしたとき、半年ほど彼と一緒になりました。よく話をしました。それはわたしが2000年に帰国してからも続きました。牧師の研修会やキャンプで一緒になれば、夜な夜な話し込んでいました。教団のこと、教会のこと、お互いのこと、家族の事。
 そして、2010年。病気のことを聞いたわたしが入院中の彼を見舞ったとき、彼は最近書かれた、ある牧師の修士論文を読んで勉強していました。その年の末、横浜の教会で説教する機会がわたしに与えられました。抗がん剤治療で体調が悪い彼は、その礼拝でわたしよりも大きな声で賛美をささげ、主の祈りを祈り、使徒信条を告白し、祝祷をささげていました。
 今年の4月。わたしが最後に彼に会ったとき、彼は癒しの信仰に堅く立っていました。彼の姿を見たわたしは、そのことばに戸惑っていました。けれど、一時間ばかりの会話の中でみことばを思い起こしました。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」復活のキリストの栄光が輝いている、そう感じました。
 5月13日、わたしの誕生日の一日前。彼から一通のメールが届きました。「直人へ。誕生日おめでとうございます!30代(−−40代の間違いですが−−)土俵際の年です。働き過ぎですね。どの働きもあなたでしか出来ない働きですが、上手に休んでください。自覚して努力しておられるでしょうが、あえて申し上げます。祈っています。お祈り下さい!」。
 わたしがそのとき、彼に返すことができたことばは、「ありがとうございます」でした。
 
 「言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。」
 
 栄光が、ただ神にありますように。