ケープタウン決意表明(11)

10. 私たちは神の宣教を愛する
 
 世界宣教はキリスト教そのものであると言っても、言い過ぎではありません。何よりも、イスラエルの神である主、イエス・キリストの父なる神は、宣教の神だからです。そこで、「神の宣教」についてまず考えてみましょう。
 聖書が私たちに明らかにする(啓示する)のは、神ご自身ですが、それとともに、神ご自身の宣教を証ししています。神ご自身の宣教のみわざはまず、十字架による全被造物の和解です。
 

その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイ1:20)

 
そして、神は全被造物を一つとするご計画を持っており、そこに向けて、世界を動かしておられます。
 

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ1:8−10)

 
しかし、当然、問題が数多くあるのは事実です。そこで、神はこのご計画を通して、様々な問題を解決しようとしておられます。
 まず、「罪と悪によってそこなわれた被造物を、もはや罪も呪いもない新しい被造物に造り変える」わざです。万物の更新とも言われるこのことこそが、神のご計画の究極的目標です。しかし、このためには地上に散らばっているすべての国民を祝福し、本来あるべき「神のかたち」へと造りかえる必要があります。そこで、神は、「地上のすべての国民を祝福するというアブラハムへの約束を、救い主でありアブラハムの子孫であるイエスの福音を通して成就する」のです。神がイエスを通してなされたみわざを通して、まず、祝福が全世界に拡がります。しかし、単に祝福が拡がるだけではありません。先ほど述べたように、すべての人類は「造り変えられ、集められる」必要があります。そこで、神はイエスの十字架のわざ、あがないのわざによって、「神の裁きにより散らされている国々から成るばらばらの世界を、・・・新しい人類へと造り変え」、さらに「私たちの神と救い主を礼拝するために集められる」のです。神が教会を生み出して下さったのです。祝福とあがないと同時に神が行うのは、神による支配の完全な確立です。そのために、神はキリストを再び送り、「生命と正義と平和による永遠の支配を打ち立て」、その一方で「死と腐敗と暴力による支配を打ち砕き」ます。その結果、神がわれらと共に住み、この世は主とそのキリストとの王国となり、神の永遠の支配が実現するのです。そこに生み出されるのが、新しい被造物の創造、新天新地の到来です。
 このようにして、イエスの福音による諸国民への祝福、十字架のわざによる新創造と召命、キリストの再臨による新しい支配の到来を経て、ついにインマヌエルが実現する、すべての被造物の更新が実現するのです。そして、これらすべてのわざをなさるのは神です。神がそのご計画に従って、全被造物を造り変えることこそ、「神の宣教」です。いわゆる「世界宣教」は「神の宣教」のすべてではありませんが、確かにその大切な一部分を占めています。そして、神の宣教と密接に結びついている教会、人類の歴史、究極的な未来は、当然、世界宣教に密接に結びついています。そして、この神の計画こそ「福音」です。
 
A. 神の宣教への私たちの参画
 
 このように見ていくと、宣教とはまずなによりも「神がなさる神のみわざ」です。「宣教とは人間がすることである」と考えているとしたら、その考えは捨て去るべきです。
 それでは、神によって集められた神の民、教会が神の宣教において負うべき役割はないのでしょうか。いいえ。「神はその民を、神の宣教を共に担うために召している」のです。つまり、神の宣教に参加し、その一部を担う役割を負うことこそ、わたしたちの宣教なのです。あくまでも主体は神です。わたしたちが主体ではありません。神の宣教に由来するのが私たちの宣教です。
 宣教的な存在である教会について、いくつかのことが記されています。まず、「すべての諸国の教会は、救い主イエスを通して、旧約聖書における神の民から連続するもの」です。イスラエルが教会に置き換えられたのではありません。むしろ、イスラエルという神の民に教会が加えられたのです。ですから、アブラハムへの召命、諸国民の祝福と光となる使命、律法と預言者によって整えられる必要、「罪と苦難の世にあって聖さと思いやりと正義に満ちた共同体となる」招きはイスラエルを対象としているのと同時に、神の民である教会をも対象としています。
 次に教会は、あくまでもイエス・キリストによるあがないと聖霊の力によって存在するものです。宣教の主体である神によって存在させしめられたものであり、神抜きでは存在し得ないものです。その一方で、神を礼拝し、神に栄光を帰し、神の宣教に参画するという特別な目的で存在しているのも事実です。つまり、神のよって生み出され、神との関わりの中で歩み続けるのが教会です。
 このようにして、教会の宣教についてケープタウン決意表明は次のようにまとめています。
 

私たちの宣教は全面的に神の宣教に由来し、神の全被造物をその対象とし、その中心は十字架のあがないの勝利に根ざしている。

 
このような宣教の使命を神からいただいている教会に属し、その民の信仰を公に言い表し、その宣教を共に担うのがキリスト者です。教会から離れたキリスト者は、ですから、一人だに存在しません。
 
B. 私たちの宣教の統合性
 
 私たちが参画する宣教とは、どのようなものでしょうか。個人がキリストのもとに来て、神との和解を受け取るために、キリストを救い主また主として告げ知らせること、いわゆる「伝道」がわたしたちの宣教でしょうか。それとも、公正と正義をこの世界に満たすために、社会的、政治的に関わっていくこと(いわゆる社会的責任)が宣教なのでしょうか。これまで、福音派の教会は伝道、社会派の教会は政治的、社会的活動、と宣教を完全に二分して考えていました。しかし、これが正しいあり方でしょうか。ケープタウン決意表明のこれまでの学びは、わたしたちに何を教えるのでしょうか。
 私たちの宣教の源は、神の宣教、すなわち全世界の救いの為に神がキリストのおいてなして下さったわざです。そして、この良い知らせをすべての国民に知らせることがわたしたちの伝道の務めです。表面的に考えるならば、「伝道をすればいいではないか」と思うかも知れません。しかし、「神がキリストのおいてなしたわざ」は「罪と苦難と不法と被造物の秩序破壊に満ちたこの世界」のために、この世界の中でなされたものです。つまり、この世界に対して、神が福音を述べ伝え、献身的に自らを献げて導かれた来たように、教会も取り組むべきです。そう考えるならば、いわゆる伝道と社会的、政治的参与の両者が含まれていない働きは、神の宣教に参画する私たちの宣教と呼ぶことはできないでしょう。
 しかし、伝道と社会的責任は、二つの全く別の要素ではありません。福音を告知するならば、福音によって変革され、それは社会的に影響を当然及ぼします(社会的な影響が及ぼされない変革などありません)。そして、変革の証しとして社会への関与は当然、福音の告知を行い、そのような場を提供するでしょう。本来、分割してはならない統合的な宣教を、私たちは歴史の中で誤って分割してしまったのです。
 ですから、教会に神が求めているのは、「宣教のすべての次元において統合的で、生き生きとした実践をすること」です。すべての諸国に福音を告知し、愛と思いやりを持って必要を抱える人を助けることによって神のご性質を反映し、神の国の価値観と力を示すことこそが、私たちの宣教です。