苦しみを通して考えるキリスト者の生き方〜ヨブ記に向き合う(1)

 
I. 問題篇
 
東日本大震災に直面して
 
 2011年3月11日14時46分18秒に襲った東日本大震災によって、日本は大きな被害を受けました。15000人以上の死者、5000人近い行方不明者。多くの町が津波で廃墟と化し、多くの農地が荒れ地となり、多くの漁船が被害にあいました。それと同時に起こった東京電力福島第一原子力発電所での事故に伴う大量の放射性物質の放出。わたし自身、福島にも行ってきましたが、人々はガイガーカンターで放射線量を測定しつつ、自らや家族に襲いかかるかも知れないなにかにおびえつつ、毎日を過ごしています。
 きっとこの中には、被災地に家族が住んでおられる方、ご自身が大きな被害にあった方、家族や知人をこの災害で失ったかたもおられるでしょう。いや、そうでなくても、あの津波の映像を見、被害にあった人々の現実を知るならば、言葉にいえないような思いが心の中に溢れているのではないでしょうか。
 私たちの心に次のような思いが溢れるのかも知れません。「愛の神がおられるのに、なぜこの世界ではあんな悲劇が起こるのだろうか。罪もない人たちがどうして命を失うのだろうか。何一つ理由を見いだすことのできない苦しみを、なぜわたしは受けなければならないのか」。
 文字通り私たちの足下を揺らした東日本大震災が私たちにそんな疑問を投げかけました。しかし、このような疑問は、決して新しいものではありません。人類の歴史の中で、数多くの人が理由のない苦しみに直面し、よく似た疑問を投げかけてきてます。そして、様々な人が「なぜ理由のない苦しみにあうのか」という疑問への答えをあげています。たとえば、理由がないとわかっていながら、「この苦しみは神からの罰である」と語る人がかならずいます。今回の震災でも、ドイツから来た一種のカルトのメンバーがそのように語っていたというニュースを聞きました。「このような苦しみが起こったのは、実は神は愛でないからだ。神は人類を愛してなどいない。だから、悲劇が起こるのだ」という人もいます。その一方で、「神は愛である。しかし、この世界を統べ治めるほどの力を持ち合わせていないので、愛の神の手が届かないところで、悲劇が起こり、理由のない苦しみに人々は直面するのだ」という人もいるでしょう。いったい、どれが正しいのでしょうか。どれも正しくなければ、真実は何なのでしょうか。
 東日本大震災のような大災害に直面した時、そして「理由のない苦しみ」についての疑問がわき上がる時だからこそ、聖書に向き合うことが大切である、と考えます。今日と明日の二回は、東日本大震災を始めとする理由がわからない苦難という現実をもってヨブ記に向き合い、「理由のない苦しみ」についてどのような答えを私たちに与えてくれるのか、そしてわたしたちが今なすべきことは何かを、共に考えてみましょう。その中で、苦難は神からの罰ではなく、やはり神は愛であり、また全能者である、そして、神が全能者であり、愛であるけれども悲劇は起こる、という「わけのわからないような現実」の中で、わたしたちキリスト者の生き方の何が問われるのか、をご一緒に考えてみたいと願っています。
 なお、第一回目の講演は「問題篇」、第二回目の講演は「解決篇」と銘打ちます。名探偵コナンではありませんが、両方とも聞いて初めてわかる、そんな講演です。
 
ヨブに起こった出来事
 
 さて、ヨブ記から「理由のない苦しみ」について考える時、全体のプロローグにあたる1〜2章を特に注意深く読む必要があります。なぜならば、ここに3章以降からの対話を正しく理解するいくつかのヒントが明らかにされているからです。
 まず、1:1−5を見てみましょう。ヨブ記の冒頭で、ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(1:1)と書かれています。4章以降でヨブの友人たちが幾度も「ヨブは悪いことを行っていたから苦しみにあっているのだ」と語っています。けれども、友人たちはヨブを正しく理解していないことは1:1から明白です。彼は無実です。ヨブが受けた苦しみは、「無実なのに受けた苦しみ」です。実は、主ご自身もヨブの無実を認めています。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

自分の完璧な作品を誇るかのように、主はヨブの無実を語っています。ヨブの無実はヨブ記を読むための前提です。
 さて、もう一つ、1:1−5でわたしたちが知ることのできるヨブの姿があります。彼には七人の息子と三人の娘がいたと書かれています(1:2)。そして、仲のよいヨブの子どもたちは、男兄弟のだれかの家に集まっては、祝宴を開いて、共に飲み食いしていたと書かれています(1:4)。それに対してヨブは、この祝宴に反対するわけではありませんが、七人の息子たちの家を一巡りする度に、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」(1:5)と恐れて、ひとりひとりのために全焼のいけにえを主にささげてきました。この行動は「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(1:1)ヨブの敬虔(piety)の現れでしょう。それとともに、彼は子どもに対して余りに過保護ではないでしょうか。神を呪ったならば、呪った本人がその責任を負う、と考えず、先回りして「なんとか失敗しないように」と過度に子どもたち(といっても成人でしょう)を守っているようにしか思えません。また、ヨブ自身が子どもと共に祝宴を楽しんでいたとは書かれていません。書かれていないことから類推するのは不適切でしょうが、自らの正しさのゆえに、ヨブはそのような場を避けていたのではないでしょうか。
 このようにして、潔癖で、正しい人ヨブは、子どもに関しては過保護であった、ということが、1:1−5の表現から垣間見ることができます。
 1:6−12で場面は天の神の議会に移ります。ここではヨブを巡って訴える者(つまり、追訴者、検察官の働きといえるでしょう)であるサタンと主との会話が書かれています。サタンは悪を代表する存在ではありません。神の議会のメンバーのひとりで、神のために働いているに過ぎません。黙示録などに出て来るサタンと全く同じ位置においてはいけません。さて、ヨブについて自慢する主(1:8)に対して、サタンは次のように言っています。

ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。(1:9−10)

「ヨブは何かの報いを求めて神をおそれている、『理由なく』神をおそれているのではない」とサタンは主張しています。さらに、主がヨブとその家、その所有物を「垣を巡らして」守っている、過保護のように守って、繁栄を与えているからこそ、ヨブは神をおそれているのだ、とまで言い切っています。ヨブが過保護の親であるのと同じくらい、神はヨブに対して過保護である、とサタンは主張しているのです。そして、神が過保護だから、ヨブは神をおそれているのだ、ヨブは正しく生きているのだ、と神にチャレンジしています。
 そして、サタンは神に一つの提案をします。「しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(1:11)。神に向かって、「ヨブに対する過保護をやめよ」と訴えているのです。主はこの意見を受け入れ、ヨブのすべての所有物を奪う許可をサタンに与えます(1:12)。その結果、ヨブの所有、家畜、しもべ、子ども(子どもも一種の所有物と理解されています)が奪われてしまいます(1:13−19)。過保護であると言われた主が、その保護の手をゆるめた時、ヨブの所有物は一切、奪われてしまいました。ヨブの繁栄は、ある意味で、「主の守り」に基づいていたのです。しかし、すべての所有物を失っても、ヨブは主を呪わず、罪を犯しませんでした(1:20−22)。自分の所有のものが奪われた理由は一切わからなかったでしょう。ヨブは天上の会議を全く知らないからです。しかし、彼は現実をそのまま受け入れました。
 2:1−6で再度、天上の神の議会での主とサタンとの対話が記されています。ヨブを巡る対立の第二ラウンドです。サタンの言葉はエスカレートします。

皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。(2:4−5)

ヨブを取り囲む主の守りをさらにはぎ落とすように、サタンは主に求めています。所有物のみならず、彼の肉体を打つことの許可を神に求めているのです。ここまで主の守りをはぎ落とせば、ヨブの本性が明らかになるとサタンは考えていたからです。主はサタンに許可を与えます。ただし、「彼のいのちには触れるな」(2:6)と越えてはならない一線をもうけてはおられます。「いのち」以外のすべては失われますが、逆に言えば、「いのち」だけは主によって守られ続けるのです。
 ヨブは病に倒れます。理由なく自分の夫が撃たれるのを見た妻は、ヨブをあざけり、「神を呪って死になさい」と悲痛な叫びを上げます(2:9)。しかし、ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と語り、罪を犯すことはありませんでした。
 
 ここまでの一連の出来事を見る時、苦難と祝福に関するいくつかの重要な特徴に気がつきます。
 まず、ヨブの繁栄は、神が守っていたから与えられていたものである点です。主がその守りを外した時、ヨブはその所有物をすべて奪われ、自らのからだは徹底的に撃たれてしまいました。順調である、繁栄している、ということを「あたりまえである」とわたしたちは理解します。しかし、繁栄は普通ではないのです。主の守りと祝福があるからこそ、祝されているのです。そういう点から見ると、子どもたちのために全焼のいけにえをささげるヨブの過保護の姿は、「繁栄は当たり前ではない」という観点に立った行動であったとも考えられるでしょう。そういう意味で、まんざら非難されるべき行動ではありません。ただし、ヨブの中での「正しい生き方」と繁栄や祝福の結びつきは強固です。
 次に、ヨブにわざわいが臨んだのは、彼が何か悪いことを行ったからではありません。神はヨブが理由なしに滅ぼされようとしていると語っていますし(2:3)、語り手も神もヨブが「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」ことを認めています。この苦しみは罰ではありません。主がそのことがわかっているのと同様に、ヨブもそのことはわかっています。苦しみは、むしろ、ヨブがどのような人物であるかを明らかにする神からの挑戦です。残酷なことが起こるのを神が許可しているいう事実は変わりません。しかし、その人の罪に対する罰としてではなく、その人の人格の本質が点検される機会として、このわざわいがあることは注目すべき点です。従って、この後の議論の大切なテーマのひとつは、「ヨブの人格」です。自らのいのち以外のすべてを失ったヨブが、どのような人となっていくか、その点に注意して読み進めるべきです。別の言い方をすれば、ヨブの正しさを否定はしていませんが、正しさだけでは不十分である、なんらかのプラスアルファが必要なのです。
 三つ目に、サタンは主が過保護であると見ていた、という点です。そして、「過保護な親」というチャレンジは、単にヨブに対してだけではなく、主に対しても投げかけられていると言っていいでしょう。「過保護な神が、報いだけを求め、それゆえに正しく生きる人間を生み出しているのだ」というチャレンジをサタンは神に投げかけています。ですから、神が人に対して(そして広くすべての被造物に対して)どのように向き合われるのかが、もうひとつの、ヨブ記における大切なテーマです。神は本当に「過保護な親」なのでしょうか。それとも、被造物に対しては全く違った態度を取っておられるのでしょうか。
  
ヨブと友人たちの議論から
 
 さて、3−31章では、ヨブを慰めようとしてやって来た三人の友人とヨブとの議論が記されています。彼らは慰めるためにやって来た(2:11)のですが、結果的にはヨブを訴えています。それは、3章におけるヨブの答えが彼らにとっては余りにショッキングであったからです。
 それでは、3章ではヨブはどのように訴えているのでしょうか。この章の詩を読むと、ヨブが自らに降りかかったわざわいをどのように理解していたかがはっきりとわかります。彼はここで、Happy Birthday(誕生日おめでとう)ではなく、Cursed Birthday(誕生日よ呪われよ)と歌っています(3:3)。

私の生まれた日は滅びうせよ。
「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。

誕生日のみならず、彼の誕生を予期し、祝った時さえも呪われているのです。これまで一切呪いの言葉を口にしなかった彼が誕生の日を呪うことによって、間接的にですが、神の働きを呪っています。さらに、「その日はやみになれ。」(3:4)と訴えることにより、天地創造時の神の言葉、「光あれ」(創世記1:3)の全く逆が起こること、つまり、この世界の秩序が崩壊するように、と願っていると考えられます。このようにして、創造者である神がこの世界に秩序を生み出された、という信仰をヨブは完全に否定しています。
 そして、ヨブは死ぬことを願っています。ヨブ3:11−19にあるように、死んで、暗闇の地に行き、小さい者も大きな者も区別なく、共にいる場所に行きたいと願っています。そして、今、生かされていること自体を彼は嘆き(3:20−26)、自分は神に囲いに閉じこめられている(3:23)と悲しんでいます。
 ヨブは自分が正しい人であることを自覚していました。しかし、そのような自分にわざわいが襲いかかる。それは、この世界の秩序は崩壊し、神はそれを保っておられないからだ、と結論づけたのです。秩序ある世界とは、正しい者に祝福が訪れ、悪しき者にわざわいが訪れる世界です。義人ヨブにわざわいが降りかかったのだから、この秩序はもはや存在しない、と考えたのです。「自分が正しい、世界の秩序(とそれを与えた神)が間違っている」とヨブが結論づけたからこそ、ヨブの友人たちと議論がわき起こったのです。ヨブの友人たちは、世界の秩序(とそれを与えた神)は間違ってはいない、と信じていたからです。
 実は、ヨブとヨブの友人たちの間の違いは、思ったより少ししかありません。なぜならば、どちらも「神は正しい人に祝福を、悪しき人にわざわいを与える」という基本的な世界の秩序を信じています(たとえば、4:7−9)。この世界にある(もしくはあるべき)基本的な秩序に関して、なんら異なることはありません。けれども、ヨブは、自分が正しいことを知っているからこそ、自分に降りかかったわざわいから世界の秩序の崩壊を訴えた一方で、ヨブの友人たちは世界の秩序は崩壊していないと信じていたから、すべての人は罪人であり(たとえば4:17−21)、ヨブにも隣人を苦しめた罪があるはずだ(たとえば8:3−7)と訴えているのです。そして、ヨブの人格を疑い続けています。もちろん、ヨブは自分の人格をある意味で適切に理解していますから、自らの人格への疑念に対して激しい言葉で返答しています。これまで想定していた世界の秩序が崩壊したと考えるか、そうでないと考えるか、そこが彼らの大きな違いです。
 わたしたちはついつい「義人はいない、ひとりもいない」という聖書の言葉から、友人たちが正しく、ヨブが間違っている、と考えてしまいそうになります。しかし、1〜2章を読んでわかるように、ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(1:1)人物です。ですから、友人たちの議論は、残念ながらその土台の部分から間違っています。やはり、ヨブの言うとおり「世界の秩序」は崩壊しています。もう少し正確に表現すると、「ヨブとその友人たちが想定していた世界の秩序」は存在してはいないのです。
 それでは、ヨブの議論は正しいのでしょうか。世界の秩序が崩壊していると考えているヨブは、神は勝手気ままに自らの思いを実現し、なんら秩序を与えていないと訴えています。たとえば、

たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、
たとい私が潔白でも、神は私を曲がった者とされる。
私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。
みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。
にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。
地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。
もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。(9:20−24)

神が道徳的秩序をもってこの世界を治めているとヨブは一切思っていません。神が「黒だ」といえば、それが白であっても、黒となる、とヨブは理解しています。だから、世界の創造の秩序が崩壊したと3章で訴えているのです。ヨブの理解はぶれてはいません。
 しかし、ヨブ自身も1〜2章で描かれている天の議会での主とサタンとの会話は知りません。もちろん、天の議会で起こっていることを見抜いている部分もあります。たとえば、ヨブは次のように神を訴えています。

神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、
私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。(9:17−18)

この言葉は、2章における次の主のことばと響き合っているのは明らかです。

おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。(2:3)

ヨブは自分が正しいのを知っていますから、当然、見抜くこともできるわけです。しかし、ヨブは大きな誤解をしていました。先に話したように、死を願っているのに死ねないのは、神が悪意から彼のいのちを保っているからだ(3:23)とヨブは考えました。しかし、ヨブが死なないでいるのは、ヨブのいのちを取る許可だけは主がサタンに与えなかったからであり(2:6)、それはむしろ神の善意の表れである点です。つまり、ヨブは自分の置かれている現実に関しては鋭い洞察力を持っていますが、いわゆる「神のみこころ」のすべてを理解しているとは言い切れません。神の善意の表れを、神の悪意の表れと勘違いし続けていたのですから。
 なお、当初は死ぬことを希望していたヨブでしたが、死にも希望がないことに気がつきます(17:13−16)。むしろ、自らの主張を大胆に神に訴え始めます。その大胆な姿勢は、エリパズに「ところが、 あなたは信仰(ヘブル語では「恐れ」)を捨て、神に祈ることをやめている」(15:4)とまで言わせるほどです。しかし、神に直接訴えても、聞いてくれない、それは仲介してくれる者が存在しないからだ(9:33)と気がついている彼は、様々な仲介を求めつつ、主に対して訴え続けています。ですから、ヨブの語りは、最初は友人に向かっていますが、徐々に神に向かって語るようになっていっているのです。
 
 理由が思い当たらない苦しみに出会ったヨブとそれを見た友人たちの議論を見ていく時に、ひとつの重要な視点が与えられます。それは、苦しみに関する「神のみこころ」がなんであるか、神がこの世界に組み込まれた秩序は何であるか、というわたしたちの議論は、時には鋭い洞察力をもっていますが、多くの場合、それは不十分であるという点です。わたしたちは天の議会で何が決められ、何が話し合われたのか、一切、知りません。自分自身について思い当たることがあったとしても、それが完璧にすべてを網羅しているとは言い切れません。友人たちのように、いや、ヨブのようにすべてを理解しきったつもりで話していても、それはあくまでも「部分的な知識に基づく」ものにすぎません。さらに、自分には一切責任がないことでさえも、わたしたちは過剰に反応し、自分の責任だと誤解してしまうこともあります。ヨブの友人たちのことばに過敏に反応し、「わたしが悪かったから・・・」と自分を責め続けるのです。このようなケースはヨブ記には記されてはいませんが、私たちのまわりでは現実にあることです。この過剰な反応も、「部分的な知識に基づく」議論です。実際に起こっていることのすべてを反映しているわけではなく、不十分です。
 このことから、今回の東日本大震災の苦しみについて、それがどのような理由で(倫理的な意味で)起きたのか、安直な議論をしてはならない、いつも自分は知らないことが多いのだという謙遜が求められます。「なぜ理由のない苦しみにあうのか」は、かんたんには答えのでない、実に難しい疑問です。それは、私たちがすべてを知りえないからです。
 
知恵はどこにあるのか
 
 それではどのような方向にわたしたちは向かうべきなのでしょうか。そのヒントが28章に隠されています。この箇所は、ヨブの最後の訴え(26〜31章)のまん中に置かれていますが、その中で異彩を放っています。なぜならば、神や人に対する訴えではなく、知恵の探求に関する詩であるからです。この詩では、貴金属を探求することの危険と困難さを述べた後に(28:1−11)、知恵を見いだすことはそれよりも困難であり、かつ知恵は貴金属よりも高価であることが綴られています(28:12−22)。実は、この詩は、ヨブの訴えと言うよりはむしろ、ヨブの苦しみと議論と神への訴えの体験そのものがこの知恵を探求する冒険であることを示唆しています。ヨブの友人たちも知者でした。しかし、彼らはある意味で過去の賢人の言葉に耳を傾けるだけで、そのような知識だけではヨブが経験している状態を説明できないことが明らかです。28:23は次のように語っています。

しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。

ヨブが経験しているような苦しみを理解しうる知恵は、ただ神に訴え、神から得ることなしには存在し得ないのです。ある意味で、過去の知恵だけに基づく議論にとどまっていた友人たちにはこの知恵は見いだせません。しかし、幾度も神に訴えたい、だから仲保者がほしい、と訴え続けたヨブには知恵を獲得する可能性が開かれているのです。ただし、彼がこの知恵を獲得したわけではありません。なぜでしょうか。28:28はどこに知恵が見つけられるかが書かれています。

こうして、神は人に仰せられた。
「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」

「主を恐れること」、そして「悪から離れること」が知恵であると宣言しています。このことに生きることによって知恵を獲得できるわけです。しかし、1〜2章を読むと、ヨブは主を恐れていましたし、悪から離れて歩んでいました。しかし、そのような彼でもまだこの知恵には至っていないのです。何かが足らないのです。神の前を正しく歩む事は大切です。しかし、それだけでは不十分です。理由のない苦しみは、もう一歩進んだ人間的成熟をわたしたちに求めます。
 何が足らないか、それは解決篇で明らかにされます。特に主が自らを嵐の中でヨブに現した時、ヨブに足らない何かが示されるのです。今回は問題篇ですから、詳しくは話しません。ただ、はっきりしているのは、これまでヨブが理解し、実践してきた「主を恐れること」や「悪から離れること」の定義とは全く違った「主を恐れること」や「悪から離れること」が求められているということです。「もっと主を恐れよう、もっと悪から離れよう」というような数値的な増大(スポーツに例えると練習量の増加、コンピュータに例えるとCPUの速度の向上やメモリーの増加)によって知恵を獲得することはできません。スポーツに例えるとフォームを改造し、これまで使っておらず、かつ意識もしていなかった筋肉を動かすこと、コンピュータに例えるとOSをWindowsからMacに変えるような本質的な変化が求められているのです。天の議会での会話が地上にいる者にとって予想外であったのですから、その予想外を理解するためには、これまでの枠組みから飛び出すことが求められるのです。
 
 自分たちはかなりいろいろなことがわかっていると、わたしたちはこれまで思ってきました。これからも今まで同様に「経済成長」を続ければ、この国は何とかなる、と考えていました。これまで十分に検討などしてこなかった様々な前提が、あたりまえだと思って進んでいました。しかし、東日本大震災を始めとするわたしたちの出会ってきた「理由のわからない苦しみ」は、現在のわたしたちが生きようとしている枠組みでは理解できない現実をわたしたちに突きつけています。そして、これまでの枠組みから新しい枠組みへと移行することを求めています。それに気づき始めている人もいますが、ほとんどの人は気がついていません。だからこそ、ヨブ記の学びを通して、キリスト者みずからが自分の生き方を再吟味し、新しい意味での「神をおそれること」「悪から離れること」を理解する時ではないでしょうか。