聖書を読む

 ツイッターでつぶやいたら、いつものように@ybunya先生が引っかかって下さり、すこし話が進んだ。だけど、140字では短すぎるし、ことばがたりないので、blogで書きます。

まず、

釈義をしていて思うのは、十分に考察することの必要性と共に、最後には「えいや」と決断する必要性。もちろん、間違った決断をしている可能性はいつもあるわけだが、色々と読んだり、考えたりしていると、結局「決められない」となってしまう。それよりは、「これだ」と決めて、批判されることも大切。ということは、聖書の釈義なんかでも、「決定的な答えはない」可能性をいつも心に留めることだろう。もちろん、その時の自分の持っている情報と能力で最大限の努力は必要だが、「完璧」とか「決定版」なんていうのは無茶なわけだ。

と呟いたら、@ybunya先生が

その通り。その最後の「えいや」を決定するものは解釈者の人間理解であり、人生経験である。そこで普通は「信仰」が出てくると思われるが、むしろ「信仰」は妨げになる。信仰は全プロセスを支える原動力である。と私は思う。RT @nkamano: 最後には「えいや」と決断する必要性。

と来たので、

聖書があくまで宗教的文書である限り、より適切な読みは文書の書き手(広い意味で)に近い宗教理解(神理解)に立ったものであると思う。もちろん、無神論の学者の理解が間違っているとは思わないが。そして、その理解が「信仰」なるものだと考えている。書き手たちと同じ世界に生きているという自覚とでもいうのだろうか。「プロセスを支える原動力」とまでは言えないかな。多くのキリスト者が薄っぺらい人間理解に立った「信仰」で聖書を読んでいることには同意するから、先生の表現に反対じゃないんだけど。そうなると、信仰に支えられた深い人間理解、聖書の記者たちが戦いつつ受け取っていった人間理解なんだろうか。またわからなくなってくる!

とお返しをした。すると、@ybunya先生は

問題は「宗教的文書である」という前提にあります。私たちの手には宗教的文書として手渡されていますし宗教的共同体内部の文書であることは違いありませんが、OTの歴史書やNTの書簡など必ずしも「宗教的文書」ではないでしょう。だから理性的に読める文書です。

と来られた訳である。
 で、ここで、文屋先生のポイントを理解した上で、私のポイントを書いておきたい。
 文屋先生のポイントは、聖書に含まれている文書すべてが「宗教的文書」と呼べるわけではない。「宗教的文書」という前提を取り除いて読むことが可能だ、と点。それゆえに、理性的に読める。変に「信仰」などの観点を入れ込むべきではなく、人間理解や経験を活用して読み、理解していけばいい。
 私は、聖書を読む段において、文屋先生の考えに全く問題を感じてはいない。聖書はある特定の社会的、歴史的、文化的、宗教的背景の中から生まれてきた文書集である。その文脈を理性的に理解し、そして読むことができれば、それでいい。いや、変に「信仰的」に読むよりも、文書の背景を理性的に捉えた読者の方が、たぶん、適切にその文書を読みこなすと思う。現代の聖書学の進歩は、このような「理性的」な読者の努力に依ってきた。たとえば、雅歌を考えてほしい。信仰的に読むという信仰共同体の伝統に反して、理性的に読むことにより、そのラブソングとしての特徴が表されてきている。
 そのような読み方がある、ということを受け入れた上で、もう一歩先(すこし前?)疑問が私にはある。聖書の文書群は、あるものは非常に宗教的な文脈から(預言書など)、あるものはそうでない文脈から生まれてきた来たもの(雅歌などは可能性として)がある。しかし、それらがあくまでも「宗教的文書」としてまとめられ、「宗教的文書」として読まれ、伝統として私たちに受け渡されてきた。つまり、聖書は宗教的文書という特徴をもったプレゼントである。そのようなプレゼントを引き継いだキリスト者である私たちはどうあるべきか、が教会という共同体に所属する私の疑問である。理性的な読みをしっかりとしつつも、プレゼントとしてわれらにこのテキストを与えた人々に対する義理を果たすのは、彼らの「信仰」なるものを知り、理解し、経験し、生きることではないか。そうすると、理性的に、人間理解や経験にとどまらない、なんらかの「宗教的なもの」が聖書を読む時に求められているように感じる。だから、宗教的文書である聖書を読む共同体のメンバーは、聖書を読む時、理性的でありつつも、「信仰的」であることが求められていると考えている。
 なお、旧約の歴史書も新約の書簡も、その歴史的な文脈のなかであっても「宗教的文書」であると思う。それは、これらの文書が超越的な存在(「神」)の摂理の中にあるという大前提で書かれたからである。逆に言うと、古代の文書の多くは、「宗教的文書」であったと個人的には考えている。