ケープタウン決意表明(2)

一.私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからである
 
 前文に実は大切なことがまとめて書かれている。
 まず、宣教の業は愛から流れ出る事。神の宣教の業は神の愛から、神の民の宣教の業は私たちの愛から流れ出る。そして、「世界宣教とは、私たちに向かって、また私たちを通して、神の愛が流れ出ること」。教会とは、自分たちに向かって溢れ流れる神の愛を受ける存在であり(つまり、神の恵み、これが第一である)、それと同時にその愛が自分たちを通して世界に流れ出る存在である(つまり、これが信仰による応答と愛の従順による実演)。1ヨハネ4:9、19。先行する神の愛とそれに対する応答としての愛のわざという最も基本的な宣教理解がここには描かれている。
 
A. 愛とは
 愛は「命令」である。それとともに、人の生き方において欠くことができず、何よりも大切なものである。そして、愛はキリスト者にとっての新生と、神を知ることと、神が共におられることの「証拠」である(1ヨハネ3:14、4:7-8, 12, 16)。特に、愛は宣教の信憑性にかかっている(ヨハネ13:34−35)。何かをことばで伝えるのが宣教においてまず大切なのではない。私たちが「愛」に生きているかが、なによりも問われるのである。そして、愛に生きているキリスト者の声に人々は耳を傾ける。
 さらに、神が御子を通してご自身をあらわされた(ヨハネ1:18)のと同様に、キリスト者の互いの愛こそ、神がこの世界にご自身をあらわし続ける手段である(1ヨハネ4:12)。神の愛を受け、それによって愛をもってキリスト者が生きていく時、そこに神の宣教のわざ、神の民を通しての宣教のわざが進められる。
 
B. 神の愛の行動とその包括性
 「愛」ということばは誤解を招きやすい。それは契約への忠実さ、決意、犠牲、力、聖という特徴を持つ(申命記7:7−9)。約束に基づいて必ず自らを与え尽くすという行動に裏打ちされている。なお、「愛」の適切な理解には、旧約聖書の学びが必須。
 さらに愛は包括的である。つまり、神のすべての行動やその特性のすみずみにまでこの愛は行き渡っている。さらに、すべての被造物に及ぶ。そして、私たちにもその同じ、包括的で行動に裏打ちされた愛を求めておられる(申命記10:12−19)。
 
C. 聖書が求めている愛
 求められている愛には四つの面がある。神を愛する(申命記6:4−5)、敵を含む隣人を愛する(マタイ5:43−45)、互いに愛し合う(ヨハネ15:12)、御子を送られた神の愛をもってこの世を愛する(ヨハネ3:16−17)。Bで語られた愛の特徴(行動が伴い、包括的である)を覚える時に、これらは実に困難なことである。しかし、宣教とは、実にこのような困難な働きを通して実現するものであって、ある意味で、私たちが思っているほど簡単なことではない。
 
D. キリストの愛
 聖書が求められている愛は、神からの贈り物(ローマ5:5)であると同時に、神の命令である(2コリント5:14)。従うべき事であると同時に、与えられるものである。この両側面を健全に保たないと、愛そうとしてつぶれたり、無理であるといってあきらめたりする。さらに、聖書が求めている愛は、キリストに似た者となって生きることと要約できる。なお、地上でこの愛に生きられたキリストがわれらがどのように愛したかを評価されることは心にとどめて置くべき事である(黙示2:4)。
 
 この愛こそ、私たちがイエスの弟子であることの証拠であり、私たちが実現してほしいと心から願うことである。それと同時に、実現していないことを告白する。そして、このケープタウン決意表明は、教会がもう一度この愛に生きることへの再献身の表明である。