街場のマンガ論

街場のマンガ論 (小学館クリエイティブ単行本)

街場のマンガ論 (小学館クリエイティブ単行本)

 なんか、内田樹の本、やたら買っている。
 この本、ブログをテーマごとにまとめたものの一つ。それにしても、マンガでこんな話ができるとは、さすが。
 感心したことのひとつは、近代啓蒙思想の影響を受けたわれわれの前提を見事に切り捨てているところ。彼は「ボーイズラブとエロス」の項目で次のように言っている。

人間がエロスを使用しているのではない。エロスが人間を駆動しているのだ。(114)

 彼は、「私」を究極の実体と擬して人間の行動を理解しようとする主体主義者(たぶん、近代啓蒙主義の落とし子・・・「我、考える。ゆえに、我、あり」)の問題点を指摘している。そして、返す刀で、自己決定とか、この自由とかの人間的価値観を最終的な審級に擬している人々を切っている。
 「私」を主体と考えるもののとらえ方に疑問を感じてはいるし、聖書の理解とはなんとなく異なることは感じているのだが、それをどのように表現すればいいのか、思いつかなかった。しかし、ここで見事に言い切ってくれている。「人間が罪を犯すのではない。罪が人間を駆動している」と言い換える。そうすると、パウロの罪と霊の理解と一致する。つまり、罪によって駆動される人生から、霊によって駆動される人生への転換こそ、神の国の到来に生きる人間なのだ。
 現代の人間理解の前提には、「私が罪を犯す」という表現、つまり、「私」主体の罪理解がある。しかし、罪の奴隷である人間の現実に立つならば、現在の人間は「罪の効果として成立した」存在である。主人なしに奴隷が存在しないように、罪なしの人間は考えられない。しかし、キリストのわざは、神の奴隷としての人間を生み出した。罪の奴隷から解放したからである。つまり、「神の霊の効果として成立した」人間とわれわれはなることができる。
 内田の本を読むと、「あたりまえ」として使っている表現が、どれだけ近代啓蒙主義によって生み出されたものであるか、よくわかる。そして、もう一度、自らの前提条件に挑戦が与えられる。「ボーイズラブとエロス」という一文に出会っただけで、十分、この本の価値があったように思う。
 あと「『エースをねらえ!』にさらに学ぶ」では、レヴィナスを引っ張ってきて、幸福論を語っている。そして、その幸福論は、まさに伝道者の書の幸福論と響き合う。なんとか、伝道者の書の本を書きたいと思っている。それも、幸福論という切り口から。そのよい参考文献ともなっている。