次元を一つあげる

 内田樹の議論を読むといつもかんじるのだが、彼は議論の次元を一つあげてものごとを考える。たとえば、国旗国歌について考えるなら、国旗国歌は賛成だ、いや反対だ、という両者の意見をとりあげ、実は両者とも、国を愛することの形態はただ一つしか存在しない、という考え方をもつ、だから、次元をあげれば、同じである、と言うわけだ。哲学的に物事を捕らえようとする場合、彼の戦術は大変有効だと思う。
 それでは、「学生は教師の言ったことに従え」と「自分たちで考えるように言った教師のことばに学生は従え」では、どうなんだろうか。次元を一つあげれば、どちらも「学生は教師の言うことを聞くべきである」という発想では同じことである。しかし、前者は単なる盲従に生きる者を生み出すが、後者はとりあえずは考える人を生み出す。長い目で見ると、前者よりも後者のほうが自分で考える人を生み出す可能性が高いと思うのだが、どうだろうか。結局、次元をあげれば、同じことなのだろうか。