内田樹のブログから

 内田せんせのブログをいつもよんでいるが、なるほど、と考えさせられる。
 今日、読んだもの(http://blog.tatsuru.com/2010/09/27_1648.php)から引用。

これらの断片的事実から推論される結論は意外なことに「公共性と身体性は相関する」ということである。
書いている私もびっくりである。
身体技法の学習とは、端的に言えば、他者(師匠)の身体との鏡像的同期のことである。
他者の身体に想像的に入り込み、他者の身体を内側から生きるということが身体技法の修業ということのすべてをそぎ落としたときの本質である。
その修業は「どのようにして他者の身体に同期するか。どのように呼吸を合わせるか。どのように筋肉のテンションや関節のしなりを揃えるのか。どのようにして内臓感覚を一致させるか」といった一連の技術的な問いをめぐって進行する。
それらの問いは「どのようにして他者との深く、肌理細やかなコミュニケーションの回路を存立させるか」というふうにも言い換えることができる。
コミュニケーションの回路を行き交う「コンテンツ」の意義や真理性よりも、コミュニケーションの「回路そのもの」が順調に機能しているかどうかを優先的に配慮する人間はたぶん「あの、ちょっと」的な本は書かない。
そういうことではないかと思う。

 すごい。コミュニケーションの回路そのものに焦点を当てるあたりが、すごい。そして、身体性と公共性とコミュニケーションのすべての結びつきをこれほど明快に語るとは。そう、これなのよ、現代の若い人に足りないの。そして、問題を抱えている人が理解できないのは。