創世記22章

 創世記22章から説教をするということで、読み直してみた。
 前から、アブラハムの行動が淡々としている、葛藤している姿が見えない、など、よく言われるテキストである。この淡々とした行動がヘブライ文学特有のものだ、という理解がある。
 ちょっと別の視点から読むことができるのではないか、と思う。まず、直後の主のことばで、主は創世記ではじめて、自らを指して誓っている。創世記に於いて、神が「誓う」ことはここだけである。この神の誓いは、この後、24章と26章で引き合いに出されている。神が祝福を誓うということは、結構、思い出来事ではないか。
 さらに、22章のできごとを通して、「わたしは知った」と神は宣言している。つまり、神は、この出来事を通してアブラハムの一面を知った。そして、それを知ったがゆえに、神は祝福を誓ったのである。事実、22:1で、神はアブラハムを試した、と書かれている。つまり、神はアブラハムの何かを知りたくて、試みた。そして、その試みの結果、神はアブラハムの姿を本当に知り、その結果、祝福を誓った。そして、アブラハムが何をするのか知りたくて、神はずっとアブラハムを見続けていた。「アドナイイルエ」は「主は見ておられる」という意味である。つまり、主はアブラハムの行動をじっくりと見て、アブラハムの姿をこの出来事を通して知った。
 こう見ていくと、22章の試みは、アブラハムのためにあったのではなく、神の為に神が計画したものではないか、と思える。
 それでは、アブラハムはどうだろうか。アブラハムは一切、動揺していない。淡々と神の命じられた理不尽な命令を遂行していった。アブラハムに感情がない、という訳ではない。しかし、アブラハムは、主から「イサクを燔祭とせよ」と言われたら、何の疑問もなく、淡々とそれを行うことができた。「ささげようか、どうしようか、ささげなかったらどうなるだろうか、ささげたらどうなるだろうか」などという葛藤なしに、ただ淡々と、主に言われたからこそ、アブラハムはそのことを行った。つまり、イサクをささげてはじめて、アブラハムの信仰が確立したのではなく、アブラハムはイサクが与えられた時点で、もうすでに22章の試みを乗り越えることができるように整えられていた。だから、彼は淡々と行動することができた。神に対するアブラハムの従順は、徹底していた。22章以前に、そのことははっきりとしていた。
 しかし、この神に対するアブラハムの従順を神が知らなかった。知らなかったから、祝福について自らにかけて誓うことができなかった。アブラハムとその子孫への祝福を宣言するだけではなく、誓うために神に必要だったのは、アブラハムの従順を知ることであった。だから、神はアブラハムを試みた。しかし、この試みを受ける前から、アブラハムは主への従順に生きていた。アブラハムにとって、イサクをささげるという試みは、最初から越えることが難しい試みではなかった。彼には楽勝だった。だから、アブラハムは淡々とイサクをささげようとした。
 こう見ていくと、「世界を祝福するためにアブラハムとその子孫を選び、彼らへの祝福を誓う」ことは、神にとって大変なことではなかったのか。最後まで、神は「アブラハムは信用できるのか」と見ていたのだろう。そして、アブラハムを本当に信用できる、と分かった瞬間に、あわてて、主の使いを通して、イサクをささげることを止めたのだ。イサクをささげることにおいて、アブラハムは決して慌ててはいなかった。むしろ、神のほうが慌てていた。
 アブラハムはとうの昔にイサクを主にささげていた。だから、彼は淡々とイサクをささげることができた。神はまだこのことをアブラハムの行動を通して知ることができずにいた。だから、このことが起こるまでは、祝福を誓うことができなかった。しかし、この出来事を通して、アブラハムを知った神は、アブラハムとその子孫に祝福を誓うという大胆な行動を移すことができた。
 いったい、22章で試みられたのはだれなのだろうか。神は確かにアブラハムを試みた。しかし、試みる以前に、アブラハムはテストにパスしていた。余裕でパスしていた。本当の意味で、チャレンジを受けているのは神なのかもしれない。「神の計画をアブラハムとその一族という人間に任せて本当に大丈夫なのか、自らをかけて誓うことによって、このプランに自らをコミットするのは本当に大丈夫なのか」。変な言い方だが、神の不安をアブラハムがその淡々とした行動によって解消してくれたのかもしれない。
 きっとこんな解釈をだれかがしていると思う。ひょっとしたらユダヤのラビにいそうな気がするが。
 結局、神は乗り越えられない試練は与えられない。しかし、人間と共にやっていくために、神ご自身がリスクを取らなければならない。人のうちに信仰が生まれているか、リスクを取らねばならない。アブラハムは何一つリスクをとってはいない。最後にリスクを取られたのは神である。