箴言10−22章に見る知恵の成長(4)

 
 それでは、「主をおそれること」とは具体的にどのような生き方を指すのだろうか。高慢ではなく、謙遜に、それも主の前に謙遜に生きることとは(18:12参照)、具体的にどのようなことなのだろうか。そのことを考えるヒントが、「ソロモンの箴言」が前半(10:1-15:33)から後編(16:1-22:16)へと移り変わる部分、つまり16:1-3に書かれている。
 まず、16:1を見てみよう。

「人は心にいくつもの計画の備えを持つ、しかし、舌の答えは主から来る」(16:1)

人は様々な計画を立て、そのために準備をする。しかし、主は、そのような人の計画や準備を知って、それに適切に応答される。つまり、「主はいつも私たちの計画を知った上で、そのみこころを行われる」ことを私たちは認めるべきである。様々な計画を立て、準備をすることをこの箴言は否定はしていない。しかし、その計画に対する主の応答が私たちの計画を大きく変える可能性があることを16:1は思い起こさせる。主の介入のゆえに、私たちの計画通りに物事が進まないこともある。時に、主は私たちに意外な応答をなされる。たとえば、

「主はすべてをご自身の答えとして行われる、そして悪者さえも災いの日のために」(16:4)

などは、心にとどめるべきだろう。
 さらに、「主はいつも私たちの計画を知った上で、そのみこころを行われる」からこそ、次の箴言には注目しておくべきである。

「人の心はその道を考える、しかし主がその歩みを確かにされる」(16:9)
「くじはひざに投げられる、しかしそのすべての決定は主から来る」(16:33)
「馬は戦いの日のために備えられる、しかし勝利は主にある」(21:31)

これらの箴言は、「最終的な決定権」が主にあることを指摘している。人はいろいろ考え、準備する。しかし、「その名は不思議」とも呼ばれる主が驚くようなことを行われることもある。もちろん、私たちの計画通り物事が進むこともある。しかし、いつもそうとは限らない。
 次に、16:2を考えてみよう。

「人の道はみな、自分の目には純粋である、しかし、主は霊を測られる」(16:2)

もちろん、不純な動機に立って、不純な計画を立て、不純な生き方を選ぶ人もいる。しかし、多くの人は、純粋な動機から、純粋に計画を立て、純粋に生きようとする。しかし、主はそれとは違った観点から人を見、私たちの動機、精神、行いを掘り下げて見ておられる(たとえば、20:27参照)。そして、主の目から見る時、純粋に思える人の生き方にも問題が潜んでいる(ほぼ同じ内容の箴言は21:2を参照)。つまり、「主は私たちとは全く別の観点から私たちを見ておられ、私たちに潜む問題点をもご存じである」ことを人は認めなければならない。主の目から見るならば、どんな完璧な人間にも「盲点」と呼ばれるスポットがある。
 たとえ自分の動機や行動であったとしても、人はそれを完璧に把握できない。しかし、主は私たちが気がついていない点さえも認識しておられる。だから、次のような箴言が語られているのだ。

「強い人の歩みは主から来る、人はどうして自分の道を認識することができようか」(20:24)

「自分自身を完全に認識できない」という限界を人は持っている。そのことを認めること、つまり「主はわたし自身も気がついていない私のすべてをご存じである」という観点に立って生きることこそ、知恵の成熟の秘訣である。
 「主はいつも私たちの計画を知った上で、そのみこころを行われる」ことを知り、「主は私たちとは全く別の観点から私たちを見て、私たちに潜む問題点をもご存じである」ことに気がついた時、16:3で語られている命令の意味が明らかになる。

「あなたのなす事を主にゆだねよ、そうすればあなたの計ることは堅く立つ」(16:3)

「ゆだねる」とは、直訳すると「転がす」という意味を持つ。つまり、大玉転がしの玉を相手に転がして渡し、次にそれがどのように返ってくるかを待っている人の姿に「ゆだねる」姿勢はたとえることができよう。日本風に言うと、「下駄を預ける」だろうか。さらに、「ゆだねる」とは何もしないで、人任せにすることではない。自分のなすべきことをなす上で、しかし物事が自分の計画通りに進まなくてもそれを受け止めて生きていく姿勢を意味している。そして、「主にゆだねた」時、自分の立てた計画が不思議な形で実現されていく。主は私たちの行動に応答される。そして、主のみこころが現される。
 だから、次の有名な箴言は真実である。

「人の心には多くのはかりごとがある、しかし主の計画が堅く立つ」(19:21)

私たちの考えを受けとめ、私たちのうちにある隠された思いも知った上で、主はみこころをなされる。「主に自分のなす事をゆだねる」者こそ、主をおそれ、謙遜な者であると言うことができるだろう。
 先日、教会学校のための会議で、「こどもたちがどうすればしっかりと主につながるのだろうか、単に楽しい教会学校で終わらないで、信仰の道を進むことができるのか」という話題となった。そこで、話し合われたのが、「聖書のみことばが真実であるということを生活の中で知る」ことと「主は祈りを聞かれる方であることを体験する」ことであった。これらは当たり前のことであるが、なぜ、みことばが真実であることを生活の中で知り、主が祈りを聞かれる方であることが大切なのだろうか。それは、今日の箴言の学びが示していることである。主は生きて働いておられる、主は私たちの深い必要も知っておられる、そのことを体験して初めて、信仰の深みへと進むことができる。主の計画が堅く立つことにみことばと祈りを通して経験するからこそ、主に下駄を預けた歩みを送ることができるのだ。
  
III. まとめ
 知恵がより深められ、成長するために一番必要なことは、人間の計画の限界を知り、自分の理解の限界を知り、主に最終的に委ねることである。このメッセージは、信仰者にとっては当たり前なのかもしれない。しかし、現実には、多くの人がこれらのメッセージを自分のものとして受け止めることができないでいる。知恵が成長すれば世界中を自分の思い通りにコントロールできる、と思い上がっているからではないか。しかし、聖書の知恵が語ることはその全く逆である。次の一言に箴言のメッセージはまとめられるだろう。

「主の前では、知恵も、英知も、はかりごともありはしない」(21:30)

全能の主の前における被造物である人間とその知恵の限界を深く知る者こそ、逆説的ではあるが深い知恵を自分のものとしている。自らの姿を振り返りつつ、このことを教会の若い世代に示すことのできる者へとさせていただきたい。