箴言10〜22章に見る知恵の成長(1)

 
<注> 明日の説教のノートを数回に分けて、載せます。今回は、箴言における知恵の成長について。
 
箴言は、イスラエルの民による知恵のことばのアンソロジーである。特に、その10章以降、数多くの箴言(格言)がまとめられている。これらの箴言を学ぶ者は、知恵を収得し、人として成熟していく。しかし、知恵に関しての初心者がいる一方で、中上級者たちもいる。なぜなら、知恵は一通りの学びで習得できるものではないからだ。継続した学びを通して、人は知恵において成長する。そして、箴言を注意深く読む時、そこに内包されている「知恵の成長のプロセス」という発想に気がつく。
 それでは、知恵は具体的にはどのような形で成長していくのだろうか。そして、知恵の成長のきっかけは何であろうか。この疑問を心にとどめつつ、「ソロモンの箴言」(10:1)として集められた格言集(10:2-22:16)に見る知恵の成長の具体的な形と、知恵を成長させる中心的な要因を学んでいきたい。
 
I. 知恵の成長
 「ソロモンの箴言」として集められた格言集は、大きく前半(10:1-15:33)と後半(16:1-22:16)に分けることができる。そして、前半に含まれている格言と後半に含まれている格言を見比べると、そこに変化を見出すことができる。
 格言集の前半には、正反対のものを並べている格言が多い。具体的には、格言集の冒頭に置かれている箴言を見てみよう。

「知恵のある子は父を喜ばせる、しかし愚かな子は母の悲しみである」(10:1)

この箴言に対義語が含まれているばかりではなく(「知恵ある子」と「愚かな子」、「父」と「母」、「喜ばせる」と「悲しみ」)、箴言全体でも正反対のできごとが並べられている。家族の喜びとなる知恵ある子と、家族の悲しみとなる愚かな子である。当然、この箴言は知恵ある子になるように読者に勧めている。そして、愚かである者がいるならば、それがどれだけ家族への痛みであるかを悟らせようとしている。
 「ソロモンの箴言」として集められている格言集の前半に収められている箴言の84パーセントは、10:1と同じように二つの対比する句が並列に並べられている。ところが、後半に目を向けるならば、10:1のような正反対な句を並べている箴言の数は極端に減る。後半だけを見るならば、全体の22パーセントに過ぎない。むしろ、後半では、似た内容の句を繰り返す箴言が多い。たとえば、はかりに関する次の四つの箴言を見てみよう。

「欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる」(11:1)
「正しいてんびんとはかりとは、主のもの。袋の中の重り石もみな、主が造られた」(16:11)
「異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる」(20:10)
「異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。欺きのはかりはよくない」(20:23)

格言集の前半に含まれている箴言(11:1)では、欺きのはかりと正しいおもりが明確に対比されている。ところが、後半に含まれている三つの箴言にはそのような対比は見られない。むしろ、正しいはかりとはどんなものであるか(主に属するもの)を解説(16:11)し、続いて、欺きのおもりの特徴(主に忌みきらわれる点)を述べている(20:10, 23)。「ソロモンの箴言」の前半に置かれている箴言と後半に置かれている箴言では、はかりに関する中心的なメッセージは変わってはいない。しかし、後半では、正しいはかりについて、そして間違ったはかりについて、その特徴がそれぞれおの箴言において深められていることがわかる。
 「ソロモンの箴言」と呼ばれる格言集全体を見るとき、前半は知恵の初心者のため、後半は知恵の中上級者のためにまとめられていると考えることも可能である。初心者にとっては物事を単純な○×式、善悪二元論で見極めることから学びはじめる必要はある。しかし、知恵が成長するに従って、根本的な原理、原則は変わらないが、物事の理解を深める必要が迫られる。推奨されることとそうでないことの違いの深みを理解することが求められるだろう。そして、なぜ推奨されるのか、なぜ避けるように勧められているのか、しっかりと見極める必要もあるだろう。
 この点は、わたしたちがこどもと接する時でもそうである。こどもがまだ幼いとき、「これはだめ、これはいい」と理由も言わずに語る場合が多い。理由など語っても、それを理解することはむずかしいからであり、まず善悪の違いがあることを知る必要があることが分かっているからである。しかし、成長するに従って、ある生き方を避けるべき理由、逆にそれが勧められる理由を説明する。また、必ずしなければならないことと、した方がいいが、しなくても罰せられないことの違いを説明するようになる。最初は単純な○×式ですむが、成長の過程で、やり方を変えていく。善悪の区別を教える場合でも、相手の成長にしたがって、その手法は変化させなければ、そのこどもの成長は期待できない。