日本人はなぜ無宗教なのか

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

 葬儀に関する様々なことを考えて読んでいる本はこれで打ち止める予定。
 日本人の宗教心を理解する上で、興味深い見解を示している。それは、自然宗教創唱宗教の区別の導入である。「創唱宗教」とは「特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教」(11)を指している。その一方で、「自然宗教」とは「いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教」(11)のこと。この定義から考えると、日本人にとって「無宗教」とは、自然宗教の信奉を意味している。宗教心はあり、年中行事(初詣、お盆、彼岸)をこなしている。けれども、決して創唱宗教に属している訳ではない。逆に言えば、年中行事という手段によって教化されているのが、多くの日本人である。だから、「宗教は怖い」、つまり「創唱宗教」は避けるが、地鎮祭などの習俗は宗教ではない。日本の政教分離が曖昧なのは、自然宗教は「宗教」と考えない日本人の宗教理解があるのだ。たいへん、納得のいく説明である。
 著者は、この「無宗教」の歴史をたどっている。死後、どのように地獄の苦しみから逃れるか、を問う強い関心からの「創唱宗教」への信仰が、室町時代儒教の伝来、経済的裏付けによる享楽的人生観の一般化、江戸時代以降の葬式仏教の設立による死後安楽の保証によって「自然宗教」が日本において再度優位になっていったと理解している。
 いろいろと興味深い議論が展開されているが、一番、心に残るのは、最後に描かれている足利源左の浄土真宗における「明確な回心」である。阿弥陀仏の慈悲を受け容れ、自己中心性に気がつくことがここで示されている。ほとんど、キリスト教の回心と近いものがここにある。もちろん、信仰の対象は異なるが、「キリスト(阿弥陀仏)にすべてを任せてしまう」という点に置いて、全く同じの宗教体験である。ただし、このような明確な回心を経験しなくても、次第に深い信心へと導かれる人もいる。
 このあたりを読みながら、N.T.WrightがSimply Christianの中で、回心を朝起きることにたとえていたことを思い出す。つまり、だんだん目覚めていく人もいれば、突然にはっと目覚める人もいる。どちらも眠りから覚めることにおいては、何ら違いはない。
 宗教多元主義の問題はあるが、人間の宗教体験にはどこか共通したものがあるのだろう。そんなことを考えさせられる。