共同体論

 山岸俊男の書いたものをいろいろと読んでいる。彼の社会心理学的見知は、結構、共同体論について、food for thoughtsを与えてくれる。
 犯罪が増えた、いじめが増えた、という現象は、人の心が荒んだからだ、という見解がある。だから、心の教育だ、愛国心教育だ、という理屈がよく言われている。しかし、山岸氏は、そうとは考えない。人間は、社会のシステムにふさわしく振る舞う。自分を守ろうとする。たとえば、転職がほとんど不可能な「終身雇用制度」の元では、会社に忠誠を尽くす事が、自分にとって最も利益となる。だから、心がどうで会社人間であったのではない。最も、自分に得をするから、会社人間となったのである。
 山岸氏のこの見知は、大切な事を語っている。人間は、自分が置かれている社会のシステムにおいて、自分がもっとも利益をえることができるように行動する。自己中心が得をするシステムの社会であるならば、自己中心になるだろう。「情けは人のためならず」が現実となる社会においては、人になさけをかけるようになる。つまり、どのような社会のシステム、別の言い方をすれば「共同体」を作り上げるか、が問題となる。そして、現代は、社会システムが大きく変わりつつある変革時に当たる。だから、それまでとは異なる人の振る舞いが増えてきたのである。
 さて、キリスト教は、終末的な神の正義を心に留めている。だから、教会という信仰共同体は、終末的な神の正義という希望に立って、その時代の社会を生きることになる。たとえ、今、迫害や困難の中にあったとしても、主に従う、という生き方を選ぶことができる。主の正義に基づく報いがあるからこそ、どれだけ現代社会において不利に見えるような行動であっても、それを選び取る事ができるのだ。従って、キリスト者が信仰共同体に身を置いて生きる、ということは、主の正義に基づく報いという社会システムにふさわしく振る舞うことを学ぶ、という意義がある。逆に言えば、主の正義に基づく終末的な報いが見えないならば、誰が信仰共同体において、通常の社会システムにおいて大損するような生き方を選ぶ事ができるだろうか。誰も選ばない。
 以上を踏まえて、二つのことを考えておきたい。
 まず、現代の教会が、終末的な神の正義に基づく報いに焦点を当てた共同体となっているか、という点である。現実として、世(=現代日本の社会システム)と同じ構造なのだろうか。それとも、世においては損をする行動であったとしても、それを行う事が得であると(徳であるとか?)思えるような社会システムであるのか。共同体の構造、倫理が問われている。そして、現実として、どうも「終末的な神の正義」に焦点を当てているとは思えない。
 ふたつめのことは、上の議論の前提となっている事。つまり、教会という信仰共同体の社会システムが、終末的な神の正義に基づく報いに焦点を当てるべきだ、と考えることは、神学的に言い直す事ができる。神の国(または天の国)がもう既に到来している、というキリスト教の基本的終末理解こそ、上記の議論の前提となっている。言い換えるならば、神の支配があるということは、神の支配にふさわしい社会システムが生み出されていると結びつけている。はたして、この理解は正しいのだろうか。間違っているのだろうか。
 共同体論を考えたい、まとめたい、と前から思っているが、山岸俊男社会心理学的アプローチが、ひょっとするとよい切り口なのかも知れない。