マラキ書

旧約緒論もこれで最後。本気で、別サイトにまとめていかないと、と思っています。

 
 小預言書最後の書、そして旧約聖書最後の書である本書は、「宣告」(口語訳では「託宣」)、そして「マラキを通してイスラエルにあった主のことば」(1:1)という標題を持っています。「宣告」というタイトルは、先のゼカリヤ書からの続きであり(ゼカリヤ9:1; 12:1)、ゼカリヤ書後半との密接な結び付きを感じさせられます。しかし、黙示的なゼカリヤ書9〜12章とは異なり、神殿における祭儀が復活している社会で、万軍の主の前にどのようにいきるべきかという現実の問題について本書は語っています。しかし、単に「今この時」の問題ばかりが取り扱われているのではありません。小預言書に一貫している、やがて来るべき主の日に関する記述が本書の終わりに向かって増えてきます。なお、「マラキ」は、ヘブル語で「わたしの使い」という意味です。
 
I. 六つの論争(1:2-4:3)
 本書の中心部は、六つの論争からできています。それぞれの論争は、主の言葉とそれに対するイスラエルの疑問から始められています。
 最初の論争(1:2-5)は、主がイスラエルを愛していることについてです。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」(1:2)というイスラエルの疑問に対して、主は、自らはヤコブ、すなわちイスラエルを愛しているのであって、兄エサウ、つまりエドムを憎んでいる、と語られています。ですから、エドムが廃虚を建て直そうとして、それは再建されない、と主は誓われます。イスラエルの地境の中だけでしか働かれない主ではなく、それを越えて諸国民の間でも、主の働きを見いだすことができることを訴えつつ、同時に、イスラエルの復興の約束の確かなことを語られています。諸国へと広がる主の働きは、この後、イスラエルを通して諸国民にあらわされる主の名というテーマとして本書で繰り返されています。
 第二の論争(1:6-2:9)では、主人であり、父である神を尊敬せず、さげすんでいるイスラエルの現実について語られています。神殿で犠牲をささげることをつかさどる祭司たちは、「どのようにして、私たちはあなたの名をさげすみましたか」(1:6)と問いかけます。主は、祭壇に汚れたパン(1:7)、盲目の獣、足のなえたものや病気のもの(1:8)、かすめたもの(1:13)、損傷のあるもの(1:14)をささげることによって主の名をさげすんでいる、と指摘しています。ペルシアから遣わされた総督にさえ差し出さないような価値の劣るものをささげているゆえに(1:8)、主は、みずからがさげすまれていると訴えているのです。その一方で、諸国民の間では、主のみ名があがめられ、きよいささげものがささげられ(1:11)、大いなる王として恐れられています(1:14)。ですから、主は、祭司たちを責めます(2:1-9)。彼らに呪いを送り、汚れを象徴する糞をまき散らすとまで言われます。レビ人と主が立てられた契約を守らず、真理の教えを語らず、平和と公正のうちに歩まないでいる、むしろ多くのものをその教えによってつまずかせているからです。律法を守り、かつ人々に教えるべき祭司たちがそれを行っていません。このことを受けてでしょうか、2:10-12では忠実な祭司たちが、ユダの問題、すなわち聖所をないがしろにして汚すことならびに外国の神の娘をめとっているいることを指摘しています。そして、聖所を汚す者たちを主がイスラエルから断たれるようにさえ、祈っています。
 第三の論争(2:13-16)においては、主がささげものを顧みない現実から話が始められています(2:13)。「なぜなのですか」(2:14)という民の問いかけに対して、主は、民が自分の妻を捨て、平気で離婚を行っている点を指摘しています。祭司は主がレビと結ばれた契約をそこなっていますが(2:8)、その一方で、民は結婚の契約を破っているのです(2:14)。
 第四の論争(2:17-3:6)では、民はそのことばで主を煩わしていると指摘されています。「どのようにして、私たちは煩わしたのか」(2:17)と主に問いかける民に対して、主の裁きは全く行われず、悪を行う者も主の心にかなっている、と彼らが理解している点が問題である、と主は指摘されています(2:17)。そして、主がその神殿を訪れる日、主の日がまもなく到来する、と予告されています(3:1-2)。その日には、主は祭司たち(レビの子)らをきよめ、適切なささげものを主にささげることができるようにする、さらに公正と正義を行わない者たちに主が向き合われます。その日、イスラエルに大きな変化が起こる、と主は語っておられるのです。
 第五の論争(3:7-12)において、主は、ゼカリヤ書でも語られた「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」ということばを民にかけられます。しかし、民は「どのようにして、私たちは帰ろうか」(3:7)と尋ねるばかりです。そこで、民が主のものを盗んでいる、そのことにおいて主に帰れ(つまり、悔い改めよ)と主は彼らに迫りますが、民は「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」(3:8)と語り、全く状況を理解してはいません。そこで、主は、ささげるべき十分の一と奉納物が、ささげられていないことを指摘し、このことによって盗んでいる、と訴えられています(3:9)。ですから、十分の一を神殿にある主の宝物倉に携え、主を試せ、主はかならず溢れるばかりの祝福を与える、と民に約束されています。
 最後の論争(3:13-4:3)では、主は民が頑ななことを言い続けていることが主に世って指摘されています。しかし、民は、何が問題なのか、全く理解できないようです(3:13)。しかし、神に仕えること、神の戒めを守ること、主の前に悲しみつつ祈ることが無駄である、さらに悪を行う者が栄えている、と人々が考えていることこそが問題である、と主は指摘します。第四の論争同様に、主の裁きは現実に行われていないと思っている人々に対する主の訴えです。ここでも、主の日の到来が予告されます。主に仕える者は主の宝と民され、あわれまれる一方で、悪者や主に仕えない者はわらのように焼き尽くされる、と主は語っています。
 このようにして、六つの論争を通じて、主へのささげものが適切に行われているか、そして、主の正義がやがてなされることを覚えて生きているか、主は問いかけておられます。私たちのささげものはどうでしょうか。「あなたは私のものを盗んでいる」と言われていないでしょうか。また、私たちの歩みはどうでしょうか。「主は正義をもって裁きをなされない」と思っていい加減に歩んではいないでしょうか。主は「わたしに帰れ」、つまり「ささげものにおいて襟を正せ、正しい歩みを選び取れ」と私たちを招いておられます。
 
II. 結語(4:4-6)
 本書の最後には、旧約聖書を代表する二人の人物が登場します。まず、律法を代表するモーセです(4:4)。律法に書かれている、主の正義のおきてを心に留めることが、主に立ち帰る道であることが示されています。さらに、預言者を代表するエリヤの到来が予告されています(4:5-6)。主の日が到来する前に、父の心を子に向け、子の心を父に向けるために預言者が来きます。主の裁きが来る前に、主の愛を知り、主に立ち帰れ、と最後まで預言者は訴えています。
 イエスは「神の国」の到来を告げておられます。それは「主の日の到来」でもあります。だからこそ、わたしたちも自らの心を主に向け、背筋を正して、主の前に歩むべきではないでしょうか。