レビ記

 今日は25章。今日が終われば、あと二章。ここは有名なヨベルの年の律法。
 ヨベルの年は解放の年だが、その解放にもいくつかの側面がある。まず、安息。土地は安息をえて、農耕が行われず、それゆえに労働者も休息を得る。次に回復。負債を抱えたゆえについに売られてしまった所有の土地が、ヨベルの年には元の所有者に返還される。土地は嗣業の地として神から与えられものだから、売ることはできない。ただ、その土地で作られる産物の数だけが売られるゆえに、この理屈が成り立つ訳だ。最後に、奴隷からの解放。この当たりがこの規程の良くできているところ。ヨベルの年に負債がゆるされ、奴隷からも解放される。しかし、大きな問題は、自由の身になったものがどこに行って、働くか、だ。しかし、同じ年、所有地も返還される。つまり、多くの負債のゆえに土地を売り、自らの身を売った人であっても、ヨベルの年には、すべて回復され、もういちど、一から(ゼロではない、土地がある)やり直せるのだ。
 ついつい、こんなことは霊的な解放、なんて言う風に捕らえてしまう悪い癖がある。しかし、第三諸国へのヨベルの年の宣言こそ、現代の先進国に求められていることではないだろうか。アメリカなんて言う消費国に対するヨベルの年の宣言は必要ない。貧しいがゆえに、すべてのものが奪われ、借金だけが残っている諸国へのヨベルの宣言が、今、必要なのだ。