ヨナ書

 小預言書第五の書はヨナ書です。本書は、他の書と違い、預言者の語った言葉ではなく、預言者の行動、それも主から逃げ、主に反抗する預言者の行動が描かれています。ヨナは列王記第二14:25に登場し、ヤロブアム王(二世)の治世におけるイスラエル王国の領土の回復を預言していました。そんな反アッスリヤ、親イスラエル預言者が、アッスリヤの都ニネベの運命について語るように主から命じられた所から本書は始まります。
 
I. 主から逃げるヨナ(1〜2章)
 アミタイの子ヨナに、アッスリヤの都である大きな町ニネベに行き、そこで叫ぶように主からの命令が下りました。それは、彼らの悪が主の前に上ってきたからです(1:2)。しかし、ヨナはニネベのある東とは逆方向の西へ逃げました。そして、海外沿いの町ヨッパから地中海の西にあるタルシシュへ逃れる船に乗っていきました(1:3)。主の言葉があればそれを語らざるを得なくなるのが預言者ですが(アモス3:8)、ヨナは「主の御顔を避け」たのです。
 しかし、主から逃げられることはできません。ヨナの乗った船を大風が押し、暴風のゆえに船は難破しそうになりました。異邦人である水夫たちは恐れ、自分たちの神々に祈り叫び、それとともに荷を捨てて船を軽くしようとしました。ところが、主を信じるヨナは、神に祈ることもせず、船底で寝ていたのです(1:4-5)。そこで、異邦人である船長もヨナに対して、神に祈るように奨めます(1:6)。次に、くじを引いた所、くじはヨナに当たり、ヨナこそがこの大嵐の原因であることが明らかにされました。しかし、ヨナはあっけらかんと「私はヘブル人です。私は海と陸とを造られた天の神、主を恐れています」と語っています(1:9)。そして、「私を捕らえて、海に投げ込みなさい」と提案するのです。ヨナを海に投げ込まないように人々は努力しましたが、うまくいきません。ついに、人々はヨナを海に投げ込みました。すると、海は激しい怒りをやめ、静かになったのです(1:15)。
 主から逃げ、自分の罪を平然と認めているヨナに比べる時、異邦人である水夫、船長、人々がどれほど「主を恐れる者」であるかがよくわかります。ヨナのように「主を恐れる者です」と彼らは言いませんでしたが、ヨナを海に投げ落とす前に主に祈り願い(1:14)、海が静まったあとは「非常に主を恐れ、主にいけにえを捧げ、誓願を立てた」のです(1:16)。
 ヨナは主が備えられた魚に呑み込まれ、その腹の中に三日三晩とどまっていました(1:16)。その時に、彼が「感謝の祈り」を主にささげています(2:2-9)。この祈りを読む時、ちぐはぐな何かを感じます。海に投げ込まれたヨナが、主の備えられた魚によって救われたことへの感謝と理解することはできます。しかし、ヨナは魚の腹の中におり、いまだに深淵の中にいるにも関わらず(2:5)、自分の祈りが聞かれたと感謝をささげているからです(2:2, 6b)。更に、皮肉なことに、主に叫び、主にいけにえをささげ、主に誓願を立てたのは(2:2, 9)、「むなしい偶像に心を留める者」と非難されている、異邦人たちだからです(1:14, 16)。ヨナが感謝の祈りをささげていますが、この祈りが本当にあてはまるのは、ユダヤ人ではない異邦人たちです。
 
II. ニネベの悔い改め(3章)
 賛美の後、主に命じられた魚はヨナを陸に吐き出します(2:10)。そして、主は「再び」ヨナにニネベに行って、主が告げる言葉を継げるように命じられます(3:1-2)。ここで始めてヨナは主の命に応え、行き巡るのに三日ほどかかるニネベの町を一日の道のりを歩き、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と告げました(3:3-4)。大きな町全体を回る前に、この知らせは町全体に広まり、異邦人であるニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、荒布を着て主の前に憐れみを求めました。すべての民だけではなく、王もそのようにしたのです(3:5-6)。そして、王と大臣たちは布告をニネベ中に出しました。人だけではなく、あらゆる家畜に至るまで、神に祈り、「おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ」と彼らは命令を発布しました(3:7-8)。なぜそのような態度が必要だったのでしょうか。それは、「神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」からです(3:9)。実は、ニネベの王は、ヨエル書2:14(「主が思い直して、あわれみ」)を引用しています。単にヨナの言葉にしたがっただけではなく、シオンの民に向かって語られた言葉を、異邦人の民が受けとめているのです。ニネベの民の行動を見て主はどうされたのでしょうか。「神は彼らが悪の道から立ち返っているのをご覧になり」(「立ち返るために努力している」は意訳)、災いを思い直し、それを止められました(ヨナ3:10)。
 預言者たちはイスラエルとユダの上に注がれる主の救いを述べました。そして、主の民が主に立ち返るように彼らは叫びました。オバデヤ書を見るならば、滅ぼされるべきは異邦人です。しかし、主の憐れみは自らの民だけに限られてはいません。主に立ち返る民であるならば、イスラエルの敵であるニネベの民であろうと、主はその憐れみを示され、災いを思い返されるのです。
 
III. ヨナの不満と神のめぐみ(4章)
 しかし、ニネベに対する主の行動は預言者ヨナを憤らせました。そして、主がこの事を行われることを予想して、自らはタルシシュに逃げようとしたのだ、とヨナは述べました。ヨナは主が「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていた」(4:2)からです。本来は主の民に向かって表される主のこの姿(出エジプト34:6、ヨエル2:13など)が、異邦人、それも敵であるニネベに対して表されたことをに対するヨナの深い憤りがそこにあります。更に、結果的にヨナは偽りの預言を語ったことになってしまいました。ニネベは滅ぼされなかったからです。
 憤るヨナに対して、その誤りを悟らせ、敵である異邦人に広がる神のあわれみを伝えるために、主はとうごまをヨナのために備えられました。ニネベの行く末を見ているヨナに日照りを覆う陰とするためです。ヨナがそれを喜んだのもつかの間、主は、翌日にそのとうごまを枯らされました。暑さのゆえ、ヨナは自らの死さえ願ったのです(ヨナ4:5-8)。ちょっとした陰を与えるとうごまを惜しんだヨナに対して、「大きな町ニネベを私はそれ以上に惜しむのだ」と主は語られました(4:10-11)。異邦人とユダヤ人の区別を強調し、前者への主の裁きだけを期待するヨナに対して、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32)の言葉どおり、異邦人を含めてすべての者に対して立ち返りと救いの道を主は開かれています。境界線のない主のあわれみがあることをヨナ書は私たちに伝えているのです。
 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)の言葉は、単に私たちへの命令に留まりません。主ご自身がそのような方であり、どのような者も立ち返り、主の名を呼ぶならば、ゆるし、救うことを願っておられます。しかし、私たちはこの主の愛を知ることの遅い者であり、自らのプライドで生きるヨナのような者です。主のすべての民に対する深いあわれみを知り、自分のものとさせていただきましょう。