オバデヤ書

 小預言書四つ目の書であるオバデヤ書、は旧約聖書でいちばん短い書です(1章だけなのは他にない)。預言者オバデヤ自身については何も記されておらず、ただ、「オバデヤの幻」(1)とタイトルにあるに過ぎません。多くの預言書では様々なテーマが取り扱われていますが、本書では、イスラエルの隣国であるエドムに関する預言だけが綴られています。
 
I. エド
 本書でも「エドム」(1, 8)と「エサウ」(6, 8, 9, 18, 19, 21)と交互に用いられていますが、エドムはイサクの子、ヤコブの兄であるエサウをその父祖とする国です(創世記36章参照)。死海の南東部に位置する地域、岩や砂漠が比較的多い地域をその領土としています(有名なペトラはエドムの領地)。ヤコブイスラエル)とは兄弟民族であるという認識が強く、出エジプト時には、エサウの子孫とは争ってはならないと命じられています(申命記2:1-7)。しかし、統一王国時代以降、幾度か、イスラエルとの戦争があったようです。そして、バビロン帝国がユダ王国を含む地域へと侵攻してきた時(紀元前586年)、エドムはすばやくバビロンに降伏し、エルサレムの破壊に協力しました(哀歌4:21、エゼキエル25:12: 35:10)。兄弟国ユダに対するこの行動のゆえに、本書で描かれている厳しい裁きがエドムに訪れることが預言されています。
 なお、イエスの誕生時にローマ帝国支配下にあるユダヤの王であったヘロデ大王は、エドム人の子孫でしたが、エルサレム神殿の祭司の娘と結婚することによってユダヤ人となりました。
 
II. エドムへの裁き(1-10)
 本書は冒頭からエドムに対する主の審判の言葉が綴られています。
 エドムに向かって立ち上がり、戦いを始めるように、という主の言葉を人々は聞いています(1)。なぜ、主はこのように審判を下そうとされるのでしょうか。それは、エドムが高慢だからです。高い所に住んでいる、わしのように高い所にいる、星の間に住まいを置いているとエドムは自らについて語っていますが、そのようなエドムを地へと引きずり下ろし、小さな国、さげすまれるものにする、と預言者は宣言しています(2-4)。
 具体的にはどのような審判がエドムを訪れるのでしょうか。夜、盗人が襲来し、荒らしつくすように、ぶどうを収穫する者が取り残しの実さえも残さずとるように、エドムの宝は奪い尽くされます(5-6)。さらに、和平の契約を結んでいた「同盟者」や「親しい友」がエドムを欺き、エドムに食糧を依存していた者たちさえもこの国に対して罠を仕掛けるようになります(7)。そして、国を治める知恵は奪われ、勇士たちは勇気を失い、人々はひとり残さず絶やされます(8-9)。
 なぜ、このような審判が下るのでしょうか。それは、ヨエルが既に述べているように(ヨエル3:19)、エドムが兄弟であるユダに行った暴虐な行動のゆえです(オバデヤ10)。本来は信頼しあう関係にあったユダを裏切ったゆえに、助け合う契約を結んだ仲間からも裏切られるのです。「あなたがしたように、あんたにもされる」(15)にあるとおり、エドム自らの行いの報いをエドムは受けなければなりません。正義をもって世界を治めておられる主は、公正をもってそれぞれの国に向き合われるのです。
 
III. 警告とその理由(11-21)
 それでは、エドムは本来、ユダにどのように対応すべきだったのでしょうか。財産が奪い取られる時に一緒になって奪い去るべきではありませんでした。ユダの災難の日に喜ぶべきではありませんでした。単に眺めているばかりではいけませんでした。逃げ道を塞ぐことなどすべきではなく、災いから生き残った人々を敵の手に渡すことをしてはなりませんでした(11-14)。しかし、残念なことに、エドムはこれらのことをしてしまったのです。兄弟国を裏切ってしまったのです。
 裏切りのゆえ、主の日が到来した時、エドムは自らのなしたことの報いを受けなければなりません(15)。「主の日」についてはヨエルが既に述べています。それは主の厳粛な裁きの日です。そして、単にエドムという一国にのみ臨むのではなく、「すべての国々の上に」その日は近づいています(15)。相手に行ってきた、まさにその事が自分の上に臨む、悲劇と報復の日です。主にとって「わたしの聖なる山」(16)と呼ばれるエルサレム(シオン)において主の憤りの杯を飲んだように、今度は「すべての国々」が主の怒りの杯を飲む番です。このように、主の日はエドムにとって、そして多くの国々にとって徹底的な壊滅の日です。そして、エドムは他の国々の代表として、この預言書の中で取り上げられているのです。「エドムのような対応をした国々は、それにふさわしい報いを受ける」と間接的に主は語っておられます。
 しかし、徹底的な破壊を経験したシオンの山はどうでしょうか。エサウの山からは知恵と勇士が絶やされ(8-9)、その地は占領され(19)ますが、シオンの山には災厄を逃れた者が残されます(17)。そこは聖地、すなわち主を礼拝する場所となり、敵を焼きつくす火となります(18)。つまり、周囲の地域をもう一度占領するのです(19-20)。このようにして、シオンは回復を経験し、世界をすべ治める主の王権がシオンにおいて回復されます(21)。
 オバデヤ書を読み進めると、ユダとイスラエルは一方的に回復され、敵国であるエドムは徹底的に滅ぼし尽くされるという一方的な姿しか見えてきません。ユダとイスラエル勝利者である主の側に立ち、エドムを始めとする国々は主とその民に敵する一方的な悪として描かれています。たしかに「オバデヤ書」しか聖書がなかったとしたらそうでしょうし。しかし、小預言書をすでに三つ(ホセア、ヨエル、アモス)読み進めてきた私たちは、オバデヤ書で描かれていることがより大きな聖書の理解の一部に過ぎないことに気がついています。アモス書において主の厳しいさばが宣告されたのは北王国イスラエルでした。そして、事実、預言の宣告通り、国は滅ぼされていきました。主の前に高慢である存在は、たとえ「主の民」と呼ばれる国々であっても、それにふさわしい報いを受けなければなりません。そういう意味で、わたしたちは「エドム」とは無関係な存在ではありません。エドムのような生き方を選び取るならば、同じ道をたどっていくのです。
 「王権は主のもの」(21)です。すべてをすべ治めておられる主の前にどのようにでるかによって、わたしたちは「エドム」にもなり得ますし、「シオンの山にいるのがれた者」ともなり得ます。自らが「エドムではない」ということに安堵するのではなく、エドムに対する警告を自らへの警告として受けとめていきましょう。