ヨエル書

 小預言書第二の書はヨエル書です。ヨエルは「ペトエルの子」(1:1)としか記されておらず、どのような人物であったかはわかりません。しかし、この預言書においては、「主の日」がどのような時であるかが記されています。
 
I. 破壊の日の到来(1:1-2:11)
 ホセア書の最後で、主に立ち返ったイスラエルの姿が、花咲き、かおり、実を結ぶ農作物に満ちた楽園にたとえられています(ホセア14:5-7)。しかし、ヨエル書の冒頭では情景は一変し、飢饉と害虫の襲来によって荒れ果ててしまった国の姿が描かれています。
 国の荒廃は様々な種類のいなごの来襲によって(ヨエル1:4)、そしていなごに象徴される一つの国民によって(1:6)もたらされます。その強力な歯によってすべての農作物をかみ砕くため、木々は荒れ廃れてしまいます。ぶどう酒も油もなくなり(1:10)、実を実らす木は枯れ(1:12)、穀物の種もなくなり、倉庫も荒れ果て(1:17)、家畜のための牧草地もなくなります(1:18-20)。環境危機が国を襲っています。
 このような国の荒廃に直面した時、預言者は人々に何を求めているのでしょうか。それは現実を「泣き悲しむこと」です。まず、ぶどう酒が無くなってしまう酔っぱらいに対して「泣くように」と命じられています(1:5)、さらに主へのささげものを失った祭司たち(1:9)、農作物を失った農夫たち(1:11)が悲しみます。ついには、祭司たちに「荒布をまとっていたみ悲しむ」ように命じられます(1:13)。そして、断食が命じられ、集会が開かれ、国に住むすべての民が主の宮に集められ、主への祈りがささげられるのです(1:14)。農作物という生活に欠くことのできないものが奪われ、その結果、喜びも楽しみも失せ去る破壊の日を預言者は「主の日」と呼んでいます(1:15)。自らの民に対する主の厳粛な裁きの日の到来です。
 エルサレムの神殿の丘、つまりシオン(「わたしの聖なる山」)で角笛が吹き鳴らされ、国中に警告が流されます(2:1)。それは神の厳粛な裁きの日、「主の日」が到来するからです。都を襲う災厄は、炎が楽園を焼きつくすようもの(2:3)、よく整えられた強力な軍隊が城壁に囲まれた町を攻め、あらゆるものを略奪し、すべてを焼き尽くす姿にたとえられます(2:4-9)。そして、主の日のあまりにすさまじい破壊は、あらゆる光(太陽、月、星)が光を失い、暗黒が世界を覆う日にたとえられます(2:2, 10)。主ご自身が恐ろしい勇者として、その民に敵対されるのです(2:11)。だれがこの裁きに耐えられるでしょうか。「主の日」の厳粛な審判が描かれています。
 
II. 主に立ち返れ(2:12-17)
 主の日の破壊を目の当たりにする時、どうすればいいのでしょうか。預言者はホセア書同様に、「主に立ち返れ」と叫んでいます。涙と断食と嘆きをもって主に立ち返ること、悔い改めることこそが救いの道です(2:12)。着物を引き裂く行為は、「荒布をまとう」行為同様に、主の前に立ち返ることを表すものです。しかし、預言者は、「あなたがたの心を引き裂け」(2:13)と訴えています。表面的なものではなく、全存在をもって主に立ち返ることを預言者は求めています。そうすれば、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直して下さる」神が、来るべきわざわいを思い直して下さるかもしれないからです(2:13-14)。ここで示されている主の姿は、シナイの荒野においてイスラエルの危機において、民のためにとりなしたモーセに示された主の最も深いところの姿です(出エジプト34:6)。主がこのような姿の方であるからこそ、わたしたちは祈り、礼拝をささげます。もちろん、わたしたちは神を自分の思い通りに動かすことなどできません。しかし、あわれみ深い神は、主の日の破壊を変えて、祝福を、主に立ち返る民に与えて下さるあわれみと恵みの神です。
 主の御告げを受けて、もう一度、シオンにおいて角笛が吹き鳴らされ、国中に断食と集会が布告されます(ヨエル2:15)。そして、老若男女、あらゆる民が集会に招かれます。さらに、祭司たちはシオンの神殿に集まり、主のあわれみを祈り求めます(2:17)。単にあわれみを求めている訳ではありません。主に立ち返る民を主がそのままにしておくならば、嗣業の地が諸国民のそしりとなり、主の御名が汚される、だから、主よ、速やかに回復を、と祈っているのです。この祈りは、シナイの荒野におけるモーセのとりなしとよく似ています。
 わたしたちは主に立ち返ること、「悔い改める」ことをどれほど真剣に受けとめているでしょうか。心を引き裂くほどに、自らの姿を主の前に悔やんでいるのでしょうか。心の深いところにまで届いていない主への立ち返りであるならば、それは主の求めておられるものではありません。
 
III. 回復と復讐の日の到来(2:18-3:21)
 主のあわれみが現実となる時、何が起こるのでしょうか。本書の最後の部分には、民の祈りに主が答えられた時の姿が描かれています。
 ここで起こっていることは、まず、今までの状況からの回復です。かつて失われた穀物と新しいぶどう酒と油は、満ちあふれるようになります(2:18, 24、1:9-10, 13, 17; 2:14参照)。牧草も生え(1:18参照)、いちじくの木とぶどうの木とは豊かに実るようになります(2:22、1:4, 12参照)。イナゴによって食い荒らされ、失われた年月を主は償って下さいます(2:25、1:4参照)。楽しみと喜びが国に戻ってきます(2:23、1:12参照)。雨が豊かに降り、農作物は実を実らせます(2:23)。繁栄は元に返され、イスラエルの真ん中に祝福を与えるあわれみの主がおられることが民に示されます(2:27)。
 しかし、主の回復は単に物質的祝福に留まりません。主の霊があらゆる人、老若男女、主人や奴隷にも注がれることにより、主の回復はさらに進みます(2:28)。主からの預言と幻に従い、主と共に歩む新しい民が誕生するのです。シオンにおける主の王権が回復され、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(2:32)祝福が現実となります。イエスの弟子達は、この主の回復の日がペンテコステの日に到来したと宣証しています(使徒2:16-21)。
 主に立ち返った民に備えられている主の日は、繁栄の回復に留まりません。諸国への主の裁き、復讐の日でもあります(ヨエル3章)。諸国民が主の嗣業の国であるイスラエルに行ったこと、イスラエルを諸国の民の間に散らし、主の嗣業の地を自分たちの間でわけ合ったことのゆえに諸国は主から審判を受けます。その裁きが行われるのが「ヨシャパテの谷」(3:2, 12)です。「ヨシャパテ」は王の名前でもありますが、「主は裁かれる」という意味であり、諸国民の上に下される主の裁きを示唆しています。シオンをその住まいとされる主は、そこから叫びの声を上げ(3:16)、諸国の間で集められた戦士たちへの裁きを行われます。そして、彼らを打ち砕き、諸国が荒れ地となります(3:19)。その一方で、主がその避け所、とりでであるエルサレムは守られ、シオンは主の聖地となり、もはや他国から侵略されることはありません。農作物の繁栄がそこに満ちあふれます。このように、主に立ち返る者にとって、「主の日」は繁栄と回復の日です。