エゼキエル書1〜20章

 「プジの子祭司」(1:3)であるエゼキエルは、ダビデの側近であった祭司ザドクの子孫、神殿に仕えていた祭司の一員であったと考えられます。そして、紀元前597年(第一次バビロン捕囚)、バビロンへエホヤキン王と共に捕囚され、ケバル川のほとり、テルアビブに住んでいました(1:1)。
 本書は、ほぼ年代順に構成されており、捕囚の第5年(エゼキエル30歳)から第25年(エゼキエル50歳)に至る20年間に預言されたことが集められています。48章に及ぶ長い預言書ですが、本書の焦点はイスラエルへのさばき(1〜24章)から始まり、諸国へのさばき(25〜32章)、そしてエルサレムの崩壊の報告(32〜33章)を境に回復の幻(33〜48章)へと舵が切られます。
 
I. エゼキエルの召命(1:1-3:21)
 エゼキエルは神の幻を見、それを綴った預言者です。まず、エゼキエルが見た幻(1:1-3:21)は激しい風と大いなる雲の中にある四つの生き物の形でした(1:4-5)今まで見たことのない存在であるため、何か他のものにたとえるしかなかったのです。この生き物は、各々人とししと牛とわしの四つの顔を持ち、四つの翼をもっていました(1:6-14)。さらに四つの輪が生き物と共にありました(1:15-21)。そして、これらの生き物と輪の上に、王座のようなものがあり、そこに人の姿のような形があったと伝えています。これは「主の栄光の形」(1:28)。イザヤは主の栄光を聞いただけでしたが(イザヤ6:2)、エゼキエルはその栄光を目の当たりにしたのです。
 主はエゼキエルを反逆の民であるイスラエル預言者として遣わされます(2:1-7)。そのために彼は「悲しみと嘆きと災いの言葉」が書かれた巻き物を食べるように命じられました(2:8-3:3)。主は、イスラエルがエゼキエルの言葉を喜んで聞かないことはご存知です。だから、彼の額をダイヤモンドのように堅くされます(3:4-11)。さらに、エゼキエルは「イスラエルの家のために見守る者」(3:16)とされました。預言者は委ねられた警告のことばを告げる責任があります。警告が告げられたならば、責任はそれを聞いた者の上に科せられます。しかし、預言者が警告を与えないならば、預言者がその責任を問われるからです。ですから、どのような厳しい警告であっても、エゼキエルはそれを民に語らざるをえません。
 
II. 来るべきさばきの宣告(3:22-7:27)
 再度、エゼキエルは主の栄光に直面します。主は、彼の口を閉ざし、反逆の家であるイスラエルに対して語ることができないようにしてしまいます(3:22-27)。
 その一方で、主はエゼキエルにいくつかの象徴的行為をさせます。かわらにエルサレムの町を描き、それが包囲されるようにすること、イスラエルとユダの家に対する罰を表すためにまず左脇を下に、次に右脇を下にして寝ること、町が包囲された時に食べる汚れたパンを食べること、髪を切ることにより、町が焼かれる姿を象徴すること(4:1-5:4)。これらの象徴的行動は、主のおきてにそむいてきたエルサレムへの主のさばきを表しています。主の怒りが民に下るのです(5:5-17)。
 6章においてもエゼキエルは民に対して語れとは命ぜられてはいません。「イスラエルの山々」に対して、彼は預言します。ここでは、イスラエル偶像崇拝に対する主の審判が語られています。祭壇と偶像は砕かれ、一部の民はつるぎを逃れることができても、諸国民の間に散らされていきます。そして、そこではじめて「主がさばきを下された」ことに気がつくのです。
 7章では、「イスラエルの地」へ向けての預言が語られています。「見よ、災いが来る、終わりが来る、その終わりが来る」(7:5-6)と審判に危急性が告げられています。偶像をつくり、暴虐を行って地を汚したがゆえに、異邦人によってもたらされる災いによって、聖所も町も汚され、滅びが到来すると預言者は宣言しています。
 
III. エルサレム崩壊の最終通告(8〜19章)
 8〜11章にかけて、バビロンの地にいるエゼキエルは再びエルサレムの神殿に関する幻を見ます。エゼキエルがユダの長老たちと共に協議している時に、彼は幻を見ました(8:1)。彼は火のように見える存在の手に捕まれて、エルサレムに携えられていきました。そこで、彼が見たものは神殿の内庭にあるねたみの偶像であり、同じ場所にあるイスラエルの神の栄光でした(8:2-4)。さらにエゼキエルが見ると、神殿には憎むべき獣の偶像があり、イスラエルの長老はこれを拝んでいます。ユダの民は主の宮の入り口で太陽を拝んでいます。これらの憎むべきわざによって、地は暴虐で満ちてしまっています(8章)。主の栄光が宮の敷き居まで移り、その時からエルサレムへの主のさばきが始まります。六人の武器を持つ者によって額にしるしのない者が殺されていきます(9章)。
 続いてエゼキエルは1章で見た同じ生き物(ケルビムと呼ばれる主の使い)と主の栄光を見ます。主の栄光はケルビムの上から神殿の敷き居の上に上がり、更にケルビムが上ったあと、その上に主の栄光も立ちました。そして、エゼキエルとすべてのものが見ている前で、主の栄光は神殿の東の門の入り口に行き、そこで止まりました(10章)。続いて、エルサレムに残っている25人の者たちに他国人の手による厳粛なさばきが下され(11:1-13)、そしてバビロンの地に捕らえ移された人々には将来への希望が告げられます(11:14-21)。たとえ他国人の間にいても、主はそこで「彼らのために聖所となる」(11:16)、さらに彼らのうちに新しい霊を与え、主に従って歩むことができるようにし、散らされた所から集める、と約束しておられます(11:16-21)。この言葉の後、主の栄光はエルサレムを離れ、町の東の山に去っていきました。エゼキエルの幻は終わり、彼はカルデヤの地に戻っていました。この幻を通して、主の栄光が去ったエルサレムの崩壊が決定づけられたと共に、他国人の地に捕囚となった民と主が共におられることが約束されています。
 12章において、主はエゼキエルに再度様々な象徴的行動をするように命じ、来るべきエルサレムのさばきを告げ知らせています。捕囚の荷物を肩に負って、夜のうちに壁に穴を開け運び出すことによって君(ゼデキヤ王)が逃亡することを(12:1-16)、震えおののきながらパンを食べ、水を飲むこと(12:17-20)によってエルサレムが荒れ地となることをエゼキエルは示しました。15章ではエルサレムの住民は火に投げ入れて焼かれるぶどうの木にたとえられ、17章では香柏とぶどうの木と二羽の大わしについてのなぞかけを通して、ゼデキヤの愚かな政治的選択が批判されています。
 その一方で、直接的なさばきのことばも告げられています。13章では平和がないのに平和と主の名をもって偽って語る預言者たちへのさばきが、14:1-11では捕囚となったにもかかわらずいまだに偶像に心を寄せる者たちへのさばきが予告されています。更に、イスラエルの君(王)たちへのさばきに関わる歌が歌われています(19章)。
 さばきが確実な状況の中で、どうすればいいのでしょうか。エゼキエルは、どれほどの義人が民の間にいても、その人たちが救いうるのは自らだけであることを告げています(14:12-20)。18章では、「父たちが、酢いぶどうを食べたので、子どもたちの歯がうく」(18:2)ということわざを用いつつ、主はおのおのをその行いにしたがってさばき、その親の行動や、かつての自分の行動によって裁かれるのではない、と告げられています。主は、「悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ」(18:30)と語られています。来るべき主のさばきから逃れるためには、自らのとがから各々が離れ、各々が主に従うしかありません。