哀歌

 紀元前586年、エルサレムとその神殿はバビロンによって破壊されました。この歴史の大転換点で人々が直面した絶望と悲しみを受けて歌われた五編の歌が、哀歌にまとめられています。1〜4章は、ヘブライ語のアルファベットが各節の最初の文字に順番に現れる「いろは歌」です。5章はそうではありませんが、アルファベットの数である22節の詩です。この特徴は、詩を覚えやすくするための技法と思われます。本書は、毎年、エルサレム崩壊を覚えるユダヤ暦4月9日に哀歌はユダヤ人の会堂で読まれてきています。なお、「エレミヤの哀歌」とも言われていましたが、聖書のテキストそのものには作者の名前は書かれていません。
 
I. 慰める者のない町、主の怒りを受けた町(1〜2章)
 1章の前半(1:1-11a)は詩人が、そして後半(1:11b-22)は擬人化されたシオンの都が、破壊された町の様子を歌っています。
 エルサレム(「シオン」または「シオンの娘」)は民の満ちていた都であり、女王のような町でした(1:1)。しかし、かつての栄華は失われ、今や奴隷のごとき姿となり、安息はなく、町は悩みのうちにあり、城壁の門は荒れ果て、女子どもは敵の手にとらえられ、聖所には異邦人が入っていきます。敵に囲まれたシオンを慰める人は誰もいません(1:2, 9)。このような災いが下ったのは、エルサレムがはなはだしく罪を犯したからです(1:8)。そのような状況の中で、都みずからが主に向かって声をあげます(1:9, 11)。わたしは主の言葉にそむいた(1:18)、だらか主からその激しい怒りを受た(1:12)、敵の手で撃ち滅ぼされた、と嘆いています。自らを慰める者はだれひとりおらず(1:16, 21)、むしろ敵が喜びおどっている事実にシオン自身が気がつき、嘆いています(1:21)。だから、この現実に主がその目をむけ(1:20)、悪しき者がその報いを受けるようにと(1:22)、シオンは叫んでいます。
 1章において主の前に叫び声をあげたシオンでしたが、2章では沈黙を守っています。その一方で、詩人はシオンの娘(エルサレム)を襲った破壊は、「主の怒り」のゆえであることを繰り返し綴っています(2:1-10)。その怒りの激しさのゆえに、おのれの足台である神殿を主は省みず(2:1)、町を焼き、あたかも敵のようにシオンに向けて弓を張り、礼拝所や祭さえも破壊されました。そして、王侯も律法も預言者も都からはいなくなってしまいました(2:9)。主の激しい怒りを目の当たりにした詩人は、主の怒りを受けた町の現実に涙を流しています(2:11-19)。子ども達が息も絶えようとしている、母は子どもにあたえる食事も飲み物もない、と言う悲惨な現実がそこにあるからです(2:11-12)。シオンは人々にあざ笑われ、敵にののしられています。だれもそれを癒そうとはしません。このようにして、シオンが滅ぼされたのは、民が偽りの預言者の言葉に惑わされ(2:14)、惑わされた町に対して主が計画されていたことをなされたからです(2:17)。だからこそ、「この絶望の中で、主に叫び、祈り、声を上げよ」と、詩人は訴えています。街角で苦しんでいる子ども達の現実を覚えるなら、そうすべきです(2:18-19)。
 そして、詩人の声に答えて、シオンの娘は主に祈っています(2:20-22)。「主よ、みそなわして、顧みて下さい」(2:20)と。母が子を食べ、祭司や預言者が聖所で殺され、人々がそのいのちを失っている現実はこれ以上続くべきではない、と主の前に心を注ぎ出しています(2:21-22)。
 
II. 悩みと希望(3章)
 3章は三節ずつが一組になったヘブル語の「いろは歌」です。1〜2章とは異なり、主の怒りのムチによるシオンの悩みを見たひとりの男性(3:1)の言葉です。
 前半(3:1-42)では、「彼」の手からシオンが受けた様々な苦しみが記されてます(3:1-20)。暗やみの中に囲まれ、閉じこめられ、垣をめぐらされ、でることができません。そして、助けを求めても祈りは退けられます。苦しめられ、物笑いとなり、平和を失い、栄光は去っていきました。しかし、語り手には一つの希望があります(3:21-39)。それは主のいつくしみであり、主を待ち望む者に対する主の恵みです(3:22-25)。もちろん、今、この時、経験しているくびきとはずかしめが即座になくなるわけではありません(3:27-30)。しかし、主は主に信頼する者を捨て置くことはなく、やがてあわれみを与えて下さいます(3:30-33)。なぜならば、今、都に起こっていることは主が命じられたことであり、災いもさいわいも主から来ているからです(3:37-38)。だからこそ、自らを省み、主に返り、主の前に罪を告白するべきです(3:40-42)。
 後半(3:43-66)では、まず、主の厳粛なさばき(殺戮、祈りが聞かれない、敵のののしり)、それに対する悲しみ、そして「断ち滅ぼされた」という嘆きの声が綴られています(3:43-54)。しかし、主はそのような声を無視される方ではありません。語り手は主の為して下さったみわざを思い出しています。「わが嘆きと叫びに耳をふさがないで下さい」という声に対して、主はかつて近寄って来て下さり、「恐れるな」と言われました。祈る者の訴えを取り上げ、命をあがなわれました(3:55-58)。主は、今も語り手が被っている不義を、敵の陰謀を、敵の言葉による攻撃をご覧になっておられます(3:59-62)。だから、語り手は主に祈り求めます。語り手の敵に対して主の怒りがあるように、そして主の正義のさばきが彼らの上にあるように、と(3:63-66)。主のあわれみと正義だけが、苦しみの中にある者の唯一の希望だからです。
 
III. 諦めと主への願い(4〜5章)
 4章では、先ほどまでの感情的な詩は影を潜めています。詩人はむしろ栄光が失われて、希望が消え去っていく姿を淡々と語っています。黄金が輝きを失い、聖所が荒れ果て、人々が餓えて死んでいく姿を述べた(4:1-10)の後、宗教的指導者(預言者や祭司)の罪のゆえに主の憤りの火がシオンに下り、人々は放浪者となり、汚れた者となったことが述べられています(4:11-16)。救いを与えることのできない人々や国々を待ち望んだゆえに疲れ衰えたのです。だから、諦めにも似た声が詩人のことばから聞こえてきます(4:17-20)。ただ、シオンを苦しめたエドムの不義が罰せられ、シオンへの罰が終わることをわずかに期待するだけです(4:21-22)。
 5章は「わたしたち」が共に主に祈り願う「嘆きの歌」です。まず、シオンに起こった悲惨な出来事を見てくれるようにと主に願った後(5:1)、民の現状が記されています(5:2-18)。国を異邦人に奪われ、奴隷となり、食物を得ることができず、女性は犯され、喜びを失い、悲しみのゆえに心が衰えてしまっています。民は極端な辱めの中です。だからこそ、すべてを支配されている主に「わたしたちを思い出して下さい、捨てないで下さい」と民は願いをささげています(5:19-20)。主に帰ります、だから国をかつてのように新たにして下さいと求めるのです(5:21)。しかし、民は主の回復を確信している訳ではありません。主から捨てられ、主の怒りの現実を痛いほど感じているからこそ、疑いの声が上げられます(5:22)。
 主に捨てられた、という経験をしている時、私たちの心は不安と確信の間を行ったり来たりします。しかし、その中でも祈り続けることができることこそがクリスチャンの希望です。