イザヤ書49〜66章

 イザヤ書1:1-2:4において、イスラエルの現実(罪深い民とその都)と将来来るべき回復(諸国民の民が集い、律法を学ぶ都)が描かれていました。この現実と回復を結ぶのがバビロン捕囚です。この捕囚の中にある民には主の恵みの回復が(40〜55章)、この回復を受けて帰還する民に向かっては回復の恵みへの応答としての正義と公正が語られています(56〜66章)。主の救いとそれに対する民の従順を通して、シオンははじめて回復され、本来あるべき姿となることができるからです。今回は、回復の預言とそれに続く民の従順を求める預言者の言葉に耳を傾けてみましょう。
 
I. 苦難のしもべとシオンの回復(49〜55章)
 「わたしのしもべ」と主に呼ばれ(49:3)、「もろもろの国びとの光としよう」と約束され(49:6)、「恵みの時に答え、救いの日にあなたを助けた」と告げられる(49:8)捕囚の民イスラエルに、主は素晴らしいご計画を用意しておられます。しかし、イスラエルの都であるシオンは主に不平の声をあげます。「主はわたしを捨て、主は私を忘れられた」(49:14)。これに対して、「母がその子どもを忘れないように、わたしは忘れない」(49:15)と即答し、荒れた都の城壁は再建され、荒れすたれた町に多くの人が住むようになる(49:17-21)と約束されています。そして、かつてイスラエルを痛みつけた諸国民とその王たちがエルサレムへと敬意を払うために上ってくる(49:22)と告げられます。これは2章で語られている幻が現実になるという約束です。
 さて、主のしもべであるイスラエルは、主から語る舌と聞く耳を与えられたと語っています。それは主の審判を経て、主に癒された姿であり(6章参照)、イスラエルの上に負わされたさばきの時はもう終わりました。その一方で、主のしもべは、依然人々に撃たれ、たりひどい目にあったりしています(50:4-9)。苦しみの現実を理解しておられる主は、苦難の中にあるイスラエルを慰め、祝福されようと願っておられます。子どもがいなかったアブラハムやサラを召して、祝福し、子孫を増し加えられたように、主は「わたしの民」と呼ばれるイスラエルとその都シオンを慰め、回復を与えようと言われているからです(51:1-6)。ですから、エルサレムに「起きよ」、シオンに「目を覚ませ」と主は呼びかけています。主は救いを成し遂げられ、荒れすたれた都を回復される、だから捕囚の地からシオンに帰れ、と命じられています(51:9-52:12)。
 52:13-53:13は有名な「苦難のしもべの歌」です。新約聖書においてはキリストの受難の預言として理解されています。それと同時に、イザヤ書の歴史的な文脈から考える時、この預言は、主の手から苦難を受けたイスラエルに対する主の慰めの歌とも理解できます。主のしもべであるイスラエルの苦難(それは死に至るまでのものでしたが[53:8-9, 12])には理由があります。なぜならば、この苦難を通して主のしもべは諸国民の病と悲しみを担ったから、そして、この苦難によって世界に癒しを与えるからです(53:4-5)。諸国民もそのことを認め、主のなされる不思議なことを見て、驚いています。素晴らしいことに、苦難のしもべは最後にはその子孫を見、主の祝福の現実に接することができます(53:10)。苦難は無意味ではない、それは他者へ癒しをもたらします。
 苦難のしもべの歌を通して、自らを通して主がなされたすばらしいわざに気がついたイスラエルに対して、預言者は主の素晴らしい計画に加わるように、と命じています(54〜55章)。主はあなたを忘れたのではない、あなたのかつての罪をもう思い出されず、むしろあなたがた散らされた民を招き、集められる、そして、あなたがたと平安を与える契約を堅く保つ、と告げられています(54:1-10)。さらに、ダビデ王への契約を主は結びなおす、その結果、イスラエルをもろもろの民への証人とし、民はシオンへと集まってくると預言者は予告しています(55:1-5)。なぜならば、40章で約束されたように、雨や雪が確実に地から芽を出させるように、主の語られた言葉は確かに何かを歴史の中で成し遂げるからです(55:10-11)。このような主の説得と約束を受け、捕囚の中にあるイスラエルは、主に応えて進みはじめます。
 
II. 主の救いのわざに応えて公正と正義を(56〜66章)
 イザヤの預言の対象は更に進みます。56〜66章においてはシオンに捕囚から帰還した民に対しての主の求めが記されています。
 バビロン捕囚からの回復という主の驚くべきみわざを経験した民、イスラエルに、主は「公平を守って正義を行え」(56:1)と求めています。具体的には主に律法に従って安息日を守ること(56:2-8)、主の前に心砕けてへりくだること(57:15-19)、社会的弱者への憐れみを示すこと(58:6-7)などです。このようなことが求められているのは、主の恵みによってシオンに帰還したにも関わらず、民は正義や公正をそこに行おうとしていないからです(56:9-12; 59:2-8)。また、国のあちこちの祭壇において偶像にいまだにささげものがささげられていました(57:1-13)。このような現実のために、せっかく礼拝の場である神殿が再建されたにも関わらず、そこでささげられる断食による祈りは主の前には全く無意味となっていました。回復が遅々として進まない原因を預言者は指摘しました。しかし、捕囚からの回復という主のすばらしい救いのみわざに応答し、公正と正義をもってシオンを建て直すならば、さらに多くの捕囚の民がシオンへ集められ、あらゆる国々の民がエルサレムの神殿に主を求めに来るでしょう。民は「破れを繕う者」(58:12)と呼ばれ、主は継続して民を養い続けて下さるでしょう(58:6-14)。
 回復という主の恵みに民が公正と正義をもって答えた時、何が起こるのでしょうか。主のなされる回復の素晴らしい姿が60〜62章に描かれています。主のしもべであるイスラエルが、主の霊の力によって社会的弱者に主の恵みによる回復という福音を告げ知らせる時、主の栄光が現されます(61;1-3)。シオンは光を放ち、その結果、もろもろの国や王たちはシオンに集まってきます(60:1-3)。諸国民は主の神殿に財宝を携えて訪れ、彼らが都を再建して強固なものとするでしょう(60:4-22)。かつては「捨てられた者、荒れた者」とよばれていたシオン(49章参照)でしたがが、主をその夫とする花嫁として輝き、飾られ、冠となるのです(61:1-5)。このようにして、2:2-4に描かれていた主の山の幻が、実現するのです。だからこそ、今、公正と正義を行うように、預言者イスラエルに訴えています。
 イザヤ書の最後の部分(63〜66章)では、主の厳粛なさばきの現実(63:1-6)に続いて、いにしえからイスラエルの父である主に回復のわざを願う民の祈り(63:15-64:12)が記されています。そして、主は新しい天と新しい地とを創造され、エルサレムに祝福を回復し、主の統治が現実となる約束をしておられます(65:17-25、11:6-9参照)。エルサレムにもう一度繁栄が与えられ(66:7-14)、約束通り諸国民が主への供え物を携えて主の神殿に来訪します。驚くことに、彼らの中から祭司やレビびととして主に仕える者も起こされます(66:18-21)。その一方で、最後まで主に背を向け続ける民が存在することも事実です。主の招きに答えようとせず、偶像を追い求める者(65:1-12)、自己中心の道を選ぶ者(66:1-6)、主に従おうとしない者(66:18)には最終的な審判が訪れます。このようにして、主の偉大な計画を綴って、イザヤ書はその幕を閉じています。