イザヤ書1〜33章

 イザヤ書は「アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻」(1:1)がまとめられています。イザヤは、紀元前八世紀後半から七世紀初頭、ユダが隣国との戦いに巻き込まれ、イスラエルの崩壊を目の当たりにし、ついには都であるエルサレムがアッスリヤに都が完全に包囲されるという激動の時代に預言者として活躍しました。
 本書のテーマはダビデ王家とその都シオン(エルサレム)の運命です。それゆえに、来るべき王メシヤについての預言が数多く見いだされ、それらは新約聖書に描かれているキリストの姿を予見しています。新約聖書に最も多く引用されている旧約聖書のひとつです。
 
I. 罪深い民、信頼しない王、新しい民の誕生(1〜12章)
 イザヤ書全体のテーマが1:1-2:5にまとめられています。
 まず、主によって養い育てられたイスラエルの民が、「罪深い民」となってしまったこと(1:2-4)。主の愛を受けながらも、主を侮り、主を捨てた民ですから、彼らから犠牲を主は受けとられません(1:11-14)。そして、罪深い民に待ちかまえている運命は、滅亡です(1:7)。
 二つ目のテーマは、イスラエルの神である主は「イスラエルの聖者」(1:4)であることです。「万軍の主」(1:9)とも呼ばれ、その力の偉大なこともイザヤ書には繰り返し記されています。しかし、イザヤが焦点を当てているのは、この神は聖なる方である、被造物とは全く異なる方であるという事実です。このことは、6章で、万軍の主が「聖なる、聖なる、聖なる」と呼ばれていたことからもわかります(6:3)。
 三つ目のテーマは、主の都であるシオン(エルサレム)です。かつては忠信であり、公平で満ち、正義を宿していたシオンがソドムやゴモラのようになってしまっています(1:21-23)。この都がもう一度整えられ、正義と忠信の都となること(1:26)、そして、全世界から民が主を求めてこの町に集まること(2:2-3)を主は願っておられるます。
 最後のテーマは、律法です。主を捨てた民は同時に主があたえられた律法をも捨てました。ですから、主の都であるシオンが律法によって再建され、それが教えられることによって世界に平和が到来すること(2:3-4)を主は願っておられます。
 さて、2:5-4:6において、ユダとエルサレムの指導者たちの罪を指摘した後、5章ではイスラエルを主が育てたぶどうの木にたとえ、主が期待した良いぶどうを結ぶことなく、野ぶどうを結んだ結果、イスラエルは荒らされ、ついには火によって滅ぼされる姿が示唆されています。後に記されていますが、この荒れたぶどう畑であるユダとエルサレムの復興が、イザヤ書の中心主題です。
 6章は有名な箇所です。預言者イザヤは、幻の中で、神殿に座しておられる聖なる主の衣のすそと主の栄光を見ます。その結果、自らが「汚れたくちびるの民の中に住む」「汚れたくちびるの者」(6:5)であることに気がついたイザヤは、火によって罪をゆるされ、自分の民への特別な働きに遣わされていきます。イザヤがあたえられた使命とは、民の心が頑なになり、主のさばきを経験するように導く務めです(6:9-10)。願わしい働きではありません。しかし、民を滅ぼすために主はさばきをあたえられるのではなく、審判という火を通して新しい民(残れる民)を誕生させるため、イザヤにこの任務があたえられました。
 7章から12章にかけては、イスラエルとスリヤの連合軍との戦いに備えるユダという歴史的な文脈の中で、主に信頼しない王アハズへのイザヤの預言が中心となります。イザヤはアハズに対して、「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」(7:9)と、他国、特にアッシリヤに依存することをせず、むしろ主に信頼してこの状態を乗り切るように伝えました。しかし、アハズはこの提案を受け入れず、アッスリヤに援助を求めます。その結果、二つの預言があたえられます。まず、アハズが依存したアッスリヤからユダが侵略を受けるということ(7:13)。もう一つは、アハズとは対照的に、主を信頼する新しい王が誕生するということ(7:14)。この新しい王は、危機的な状況下でも主が共におられるという事実を体現し(「その名はインマヌエル」[7:14])、公正と正義をもって国を治め(9:6-7)、主を恐れると言う信仰に立って弱者をいたわり(11:1-5)、本当の平和を到来させ(11:6-9)ます。今まで存在したあらゆる王にまさる素晴らしい王が登場するのです。そして、新しい王の誕生を通して、民も皆、「真心をもってイスラエルの聖者、主に頼る」(10:20)ようになります。
 
II. 諸国の神である主(13〜27章)
 13章から23章にかけては、ユダを巡る諸国への主の厳粛なさばきを通して、万軍の主こそが全世界の王であることが提示されています。まず、バビロン(13〜14章)へのさばきの宣告から始まり、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、エチオピア、エジプト、アッスリヤ、「海の荒野]、ドマ、アラビヤ、「幻の谷」、ツロへの主の厳粛なさばきが告げられています。このさばきは「主の日」の到来を指しており(13:6, 9)、そこでは自らの力を高ぶる者たちの誇りを打ち砕く主の姿が描かれています。つまり、イスラエルの神、万軍の主こそ、諸国民の神であることが強調されています。
 主のさばきの幻は24章からも継続しますが、その幻がシオンの回復とそこからの主の統治の幻へと深められています(24:23)。そして、主の民の回復を祝い、すべての民を招く祝宴の情景が続きます(25章)。諸国への主のさばきとシオンの回復のクライマックスは、主が守り、育てた麗しきぶどう畑の歌(27:2-6)です。野ぶどうを実らせるものではなく(5:1-2)、その実を全世界に満たすぶどう畑です。さばきの後に待っているシオンの回復が描かれています。
 
III. エジプトに頼るのか、主に頼るのか(28〜33章)
 28章に入ると、突然、「わざわいだ」という言葉が繰り返されます。それは北王国(エフライム)に対する叫びであり(28:1)、アリエルと呼ばれるシオンの都であり(29:1)、主に自らの計画を隠す者で有り(29:15)、主によらない計画と同盟を結ぶ者たちであり(30:1)、エジプトの軍事力に寄り頼む者であり(31:1)、人々を滅ぼし尽くす者たちです(33:1)。「わざわいだ」の言葉を繰り返すことによって、アッスリヤのユダへの侵攻という状況下でエジプトの保護下に入ろうとするユダの王に対して、その愚かさと来るべき悲劇をイザヤは指摘しています。最後には恥とはずかしめに終わるからです(30:5)。むしろ、主に立ち帰って、主に信頼する時、力を得て、主の救いを得るのです(30:15)。主への信頼の重要性が繰り返されています。それとともに、正義と公正をもって国をさばく王の到来が予見されています。公平と正義をもって国を導き、善悪を取り混ぜることないさばきをする王です(32:1-8)。そのような王が誕生するために、そして公平と正義と平和に満ちる町を再建するために、主はその霊を地に注ぎ、新しいみわざをなされるのです(32:15-20)。