預言者の時代

 主が預言者を立て、イスラエルとユダにその言葉を語られた時代、世界はエジプトとメソポタミヤに現れた列強の間の勢力争いの渦に巻き込まれていました。イスラエルとユダも例外ではありません。ですから、預言者を理解する上で、彼らが置かれた時代を知っておく必要があります。
 
I. 分裂王国と北王国(イスラエル)の終わり
 ソロモン王の死後、統一王国イスラエルはは二つにわかれ、北の十部族はヤラベアム一世を紀元前926年に王とし、新たに北王国(イスラエル)を建国しました(列王紀上12章)。南王国(ユダ)に比べて経済的(交易)にも資源的(農業)にも優位に立つ領地を持っていた北王国でしたが、宗教面では神殿のあるエルサレムを都とする南王国にはかないません。そこでヤラベアム一世は王国の南の端ベテルと北の端ダンに礼拝所をつくり、そこに金の子牛をイスラエルの神である主をあらわす像としておき、その前で犠牲を献げました(12:26-33)。彼のこの宗教政策は「罪」として列王紀の記者に批判されています(17:21-23参照)。
 紀元前9世紀半ばのオムリからはじまる王朝は、四代にわたる比較的安定な王家を保ちました(16:23-28)。オムリは地中海岸沿いのフェニキアの国々と交易関係を結び、息子アハブにシドンの王の娘イゼベルを妻として迎えました。その結果、フェニキアの宗教であるバアル礼拝が北王国に積極的に導入されました(16:29-33)。アハブ王の時代に活躍した預言者がエリヤです。
 オムリ王朝の最後の王ヨラムに対してクーデターを企て、新しい王朝を形成したのがエヒウです(紀元前845年)。預言者エリシャはこの時代の人です。エヒウ王朝の時代、メソポタミア北方のアッシリヤ帝国はその力を回復し、パレスチナの地に侵略の手を伸ばしてきました。また、北王国の北東のスリヤからの侵略もあり、北王国は領土を少しずつ失っていきました。しかし、アッシリヤの力が一時弱っていた8世紀前半、ヤラベアム二世はその領土を拡大することに成功し、繁栄の時代が北王国に訪れました。この繁栄は社会的弱者の犠牲と虐待の上にのったもので、国に公正と正義が失われていたことを忘れてはいけません。この現実を指摘したのがアモスです。
 ヤラベアム二世の死後、紀元前745年にティグラト・ピレセル(聖書ではプル[列王紀下15:19])がアッシリヤの王として即位した後、北王国は激しい侵略を受け、ついにアッシリヤの属国となりました。ティグラト・ピレセル死後、反乱を企てたために北王国とその都サマリヤはアッスリヤのシャルマネセルとその後を継いだサルゴンの手によって紀元前721年に陥落されました(17:1-6)。イスラエルの人々はアッシリヤの各地へと捕囚されていきました。
 
II. 南王国(ユダ)とバビロン捕囚
 紀元前922年に北王国が建国された後もダビデ王朝と首都エルサレムを頂く南王国(ユダ)はユダ族とベニヤミン族によって継続して存在しました。北王国に比べて経済力は劣っていましたが、山中に位置しているために他国の侵入が少なく、比較的安定な歴史を送ることができました。
 南王国の初期の時代には北王国との戦闘がしばしば繰り広げられましが、国家存亡の危機に至るほどのものではありませんでした。しかし、北王国がアッシリヤ帝国に滅ぼされる8世紀後半に大きな危機が南王国を襲ってきました。当時、アッシリヤに対抗しようとダマスコを首都とするシリヤ(アラム)と北王国イスラエル(エフライム)が反アッシリヤ同盟を組み、この二国間同盟に加わるようにとユダの王アハズを誘いました。しかし、アハズはそれを拒絶し、むしろアッシリヤの傘下に入りました。その結果、南王国とシリヤ・イスラエル連合間にシリヤ・エフライム戦争(733年)が起こりました。南王国はアッシリヤの援軍によってこの危機を乗り越えることができましたが、この戦いの結果、南王国はアッシリヤの属国となりました。貢ぎ物を送るのみならず、アッシリヤの宗教を受け入れる事が求められるようになり、アハズはアッシリヤの神殿をエルサレムに建立しました(列王紀下16:10-18)。
 アハズの後をついたヒゼキヤの時代、アッシリヤは一時弱体化します。ヒゼキヤは属国関係をうち切りますが、セナケリブによって安定化したアッシリヤにユダが侵攻される危機を招きます。アッシリヤ軍はユダの町々を次々と滅ぼしていき、ついにエルサレムを包囲しました(701年)。しかし、ヒゼキヤはイザヤの助言のもと、この危機的な状況の中でも主に最後まで信頼し、その結果、奇跡的にアッシリヤ軍は滅ぼされ、セナケリブも本国に帰還します(イザヤ36-37章)。
 ヒゼキヤ後、ユダはまたしばらくアッシリヤの属国となりまで、アッシリヤそのものは次第に弱体化し、近隣諸国、特にバビロン帝国によって侵略されていきました。権力の真空地帯がパレスチナに生まれた時にユダの王であったのがヨシアです(639-609年)。彼はまずアッシリヤの属国からユダを離脱させ、それに続いて神殿を修復し、神殿より発見された「律法の書」に基づいた徹底的な宗教改革を断行しました(列王紀下22:8-23:25)。残念ながらヨシヤの改革は彼がエジプトの王パロ・ネコとの戦闘で戦死したことによってとん挫しました、
 ヨシヤの死後すぐユダはエジプトの属国となります(23:33-35)。しかし、その後エジプト・アッシリヤ連合軍はユーフラテス川上流のカルケミシュにおける戦いでバビロン軍に敗退し、バビロン帝国がメソポタミヤの新しい盟主となりました(605年)。その後、ユダはバビロンの属国となることとそこから離脱して反逆することを繰り返していきます。最初の反逆の結果、エルサレムはバビロン軍に包囲され、第一次捕囚がおこります(24:10-17、597年)。ユダ王国から王エホヤキンと上流階級の人々がバビロンへ連行されていきました。このとき共にバビロンに連行されたのが預言者エゼキエルです。バビロン王ネブカデネザルに立てられたゼデキヤ王もバビロンに反旗をひるがえし、エルサレムは再度包囲され、都は落とされ、王は処刑され、神殿は壊され、町は火をもって焼かれ、残された民の一部はバビロンへ捕囚されていきます(25:1-21:第二次捕囚、586年)。このエルサレム陥落をもってユダ王国の歴史は幕を閉じます。都の崩壊を目の当たりにしていた預言者のひとりがエレミヤです。
 
III. ペルシアによる復興
 バビロン帝国(604-539)は強大さの故に長くメソポタミアを支配したと考えられがちですが、そうではありません。ネブカデネザル王の死後、国は衰え、539年に首都バビロンを無血でペルシア帝国を率いるクロスに明け渡すこととなります。主の歴史への介入を待ち望んでいた人々にとってペルシアの到来は約束の成就でした。クロスは538年に「ユダの人々はエルサレムに帰って、神殿を再建せよ」との勅令を出し(エズラ1:2-4)、ユダ王エホヤキンの息子セシバゼルを中心とした人々がネブカデネザルに没収された神殿の器物を携えて第一次エルサレム帰還を行いました(1:5-11)。時代がすすみ、ダリヨスがペルシア王となったとき、王家の血を引くゼルバベルと祭司長であったヨシュアが神殿の再建事業に取り組みました。そして、ハガイやゼカリヤという預言者たちの励ましによって、515年に神殿が再建されました(3:1-13)。ソロモンが建てた神殿の栄光の足元にも及ばない粗末な建物でしたが、人々はその完成に熱狂しました。