預言者とは

<これから預言者シリーズ、ただし現在進行形>

 旧約聖書には39巻の書物が含まれています。そして、これまでそのうちの22の書を学んできました。これからしばらくの間、旧約聖書の一番最後の部分に置かれている「預言書」17巻について概観していきます。
 
I. 預言書
 わたしたちが手にしている旧約聖書には数多くの預言書が含まれています。大預言書(「大」は書の長さを表しています)としてイザヤ書エレミヤ書エゼキエル書。小預言書(または十二預言書)としてホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。これらの十五に加えて、クリスチャンの聖書(もともとは旧約聖書ギリシア語訳である七十人訳)には、哀歌ならびにダニエル書が含まれており、一般にこれらの十七の書が「預言書」と呼ばれています。
 しかし、ユダヤ人たちは最初に記した十五書を「後預言者」(預言『書』ではない)と呼んでおり、これに対応する「前預言者」としてヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記をあげています。つまり、「歴史書」とわたしたちが捉えている書物を、ユダヤ人たちは「預言者」の一部として理解しているのです。さらに、哀歌とダニエル書は「後預言者」に含まれておらず、いろいろな書を集めた「諸書」の一部と理解されています。ですから、クリスチャンが「預言書」と呼ぶ17巻の書物は、ユダヤ人の聖書の後預言者と諸書の一部から構成されています。
 それでは、なぜ、歴史書の一部をユダヤ人たちは「前預言書」と呼んでいるのでしょうか。それは、預言書の中心である預言者たちが歴史書の中で活躍しているからです。さらに、驚くことに五書にも預言者が登場します。たとえば、アブラハム(創世記20:7)やモーセ民数記12:1-8)なども預言者と呼ばれています。ですから、旧約聖書の大部分が「預言者」と深い関わりのある書だと言うことも可能なのです。
 
II. 預言者と先見者
 それでは、旧約聖書に頻繁に登場する「預言者」とはいったいどのような人々のことを指すのでしょうか。実は「預言者」はさまざまな名前で呼ばれています。
 まず、「預言者」(エレミヤ1:5)。これは「呼ばれた者」という意味をもともともっており、神によって呼ばれ、選ばれた人を意味しています。つまり、神によってある特別な働きに任じられた人々を指しているのです。それではどのような働きに預言者は任じられているのでしょうか。まず、主から主の言葉や命令を頂き(1:9)、それを民に告げる務めです(1:17)。預言者を通して語られる主の言葉を聞いた民は、当然、それに従う義務があります。「主の言葉がわたしに臨んで言う」(1:4)という表現や「主はまたわたしに言われた」(3:6)という表現が用いられているのは、そこで語られている言葉が主からの命令であることの印です。もう一つの預言者の務めは、民の願いを主に取りなす働きです(27:18)。つまり、旧約聖書の時代、主と民の対話は、直接に行われたのではなく、預言者を仲介として行われていました。
 預言者に対して使われるもうひとつの称号に「先見者」(アモス7:12)があります。これは直訳すると「(幻を)見ている人」という意味です。幻を多く見た預言者としてエゼキエルがあげられるでしょう。もちろん「先見者」も主から言葉や命令を託されます。しかし、主から見せられた幻を民に告げるという働きを「先見者」は行っていたとも考えられます。たとえば、イザヤ6:1やエレミヤ1:11-14などは「先見者」にふさわしい出来事でしょう。
 なお、預言者は、「神の人」(サムエル上9:5-10)や「預言者のともがら」(または「預言者の息子たち」、列王紀下2:3)とも呼ばれていました。
 預言者の称号、さらにはその働きは多岐にわたってはいますが、主の霊の特別な働きなしに預言者としての働きを全うすることはできませんでした(民数記11:24-25)。主の霊が預言者たちに働く時、時には「霊につかれたような状態」になることもあったようです(たとえばサウルについてサムエル上10-10-12)。その一方で、全く普通の状態と変わらない時もありました。しかし、主の霊の特別な働きを受けた時の預言者たちの状態がどうであったかに関わらず、主の言葉に捉えられた預言者たちは、その言葉を民に語らざるを得ないように導かれていきました。
 それでは、どのようにしてある人は預言者になったのでしょうか。旧約聖書の中には、神がある人を選んで、預言者として招かれる出来事が記されています。アモスは一言で彼自身の召命を記しています(アモス7:14-15)。イザヤは主の声を聞いた時、すぐに「ここにわたしがおります」と自らを差し出しました(イザヤ6章)。エゼキエルは彼自身の反応を記していません(エゼキエル3:4-11)。主の選びの言葉を聞いたエレミヤは、その召命を一度は拒絶します(エレミヤ1:6)。しかし、主に説得され、励まされて、その働きに向かっていくことを決意するのです。このように、預言者への召命はひとそれぞれです。
 
III. 預言
 それでは預言者たちが語った「預言」はなにを指しているのでしょうか。
 「預言」と聞くと、将来起こることを告げる「予言、予告」を思い浮かべます。将来起こるべきことが、それが起こる以前に予告されていることを指していると考えるでしょう。しかし、聖書に記録されている預言の多くは、その預言が語られた時代のイスラエルとユダの現実と深く関わっています。王とその偶像崇拝、偽の預言者、律法を教えない祭司、社会的弱者を食い物にする裁き人、贅沢に走る女たち。このような人々の姿を指摘し、痛烈に批判し、主のみこころに適う民となるためにその歩みを変えるべきであると預言者たちは訴えました(エレミヤ1:15-16など)。ですから、主に従わないものへの厳粛なさばきとさばきを経て与えられる国の回復が預言者たちによって告げられています。
 しかし、より大きな計画を抱いて、ユダとイスラエル、さらには全世界を主は導いておられます。ですから、今この時に関わる問題だけを取り扱っておられるわけではありません。主のご計画の光に照らした時、どのような将来へと民は導かれていくのかをも、主は預言者を通して語っておられます。そういう意味で、確かに預言には予告が含まれています(1:14など)。
 このように、預言者たちが語る預言は、彼らが活躍した時代と深い関わりを持っています。イエス・キリストのなされることを単に予告しているだけではありません。ですから、預言書を学ぶ上で、預言者たちが活躍した時代の背景を知る必要があります。そこで、次回は預言者たちが活躍した時代を簡単に見ていきましょう。