捜すけれども、見つからない(雅歌2:8-3:5)

 
 愛しあうおとめと若者(羊飼い)の対話が雅歌の中で繰り返されます。しかし、彼らは互いが結ばれた喜びを歌ってはいません。むしろ、お互いを切に求め続けるているにもかかわらず、なかなか一緒にいることができない現実が綴られています。この現実は、主を祈り求め続けているのに、どうしても答えられないと感じるわたしたちの姿と似てはいないでしょうか。
 
I. 楽園へ出てきなさい(2:8-17)
 愛し、慕う羊飼いのことを思うおとめの耳に、若者の声が聞こえてきます。その声に応えて、かもしかや若い雄じかのように躍動感あふれ、自由に、力強く現れる若者の姿を彼女は描写しています。しかし、彼女は彼のところに行けません。おとめは家の中、羊飼いはその外に立っているからです。彼らは見つめあっていますが、共に過ごすことはできません。彼は窓から中をのぞき、愛するおとめに声をかけることしかできないからです(2:8-9)。「立って、出て来なさい」(2:10, 13)と若者は呼びかけます。それは、寒く雨の多い冬が終わり、春がやってきたからです。花が地に現れ、鳥がさえずり、山鳩の声が聞こえる時となり、いちじくはその甘い実を結びはじめ、ぶどうの木は花を咲かせ、芳しいかおりをふりまいています(2:11-13)。視覚、聴覚、味覚、嗅覚を通して、春の到来を感じることができるようになりました。だからこそ、家の中に留まらず、楽園へ出てくるように、羊飼いはおとめを誘っています。
 2:14でも、羊飼いはおとめに家の外に出てくるように誘っています。そして、家の中に留まり、窓から外を見ることしかができないおとめの姿を、「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわが鳩」と彼はたとえています。そして、その愛らしい声を聞かせ、その麗しい顔を見せてくれるように切望しています。
 羊飼いの誘いに応えるように、おとめはお互いが密接に結びあっていることを告白しています。「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」(2:16)。愛という契約でしっかりと結び合わされて、離れることのできない二人の姿です。しかし、今はまだそれを十分に味わうことができる時ではありません。朝が来て、日が昇り、一度止まった風が吹き出し、影が短くなって来たからです。だから、「身を返して向こうに行って下さい」と彼女は羊飼いに去るように告げます(2:17)。
 イザヤ書において、花が咲き乱れる楽園は主のさばきから回復されたイスラエルを象徴しています(イザヤ35:1-2)。おとめをこころから愛する若者のように、主はイスラエルに「回復された祝福の下へ帰ってきなさい」、まことの羊飼いである主なる神の下へ、と呼びかけておられるのではないでしょうか。そして、主が造られた楽園へ戻った時、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト6:7)という主のイスラエルとの約束が現実のものとなるのです。
 
II. たずねても見つからない(3:1-4)
 若者と共にいたいけれども、そのようにならない現実におとめは直面しています。「わが魂の愛する者」がそこにいない切なさです。ですから、彼女は「夜、床の上で」彼をたずね求めました。しかし、見つかりません(雅歌3:1)。「わたしは起きて、町を回り歩き、街路や広場でたずねよう」(3:2)と彼女は自分の意志から、意図的に若者を捜し求めますが、見つかりません。その一方で、町の街路を行き巡っている夜警たちは彼女が町を回り歩いているのを見つけます。そこで、「わが魂の愛する者」を見かけませんでしたか、とおとめは彼らにたずねます(3:3)。夜警たちの答えは書かれてはいませんが、「見かけなかった」という残念な答えであったのでしょう。
 表面的に読む時、若者を切なる願いをもって捜している女性の姿、と考えられます。しかし、この情景は、それだけに留まりません。むしろ、わたしたちと神との関係を示唆しているのではないでしょうか。前回の箇所でも述べましたが、「わが魂の愛する者」とは主なる神を表しています(申命記6:5)。そして、「たずねる」と訳されている言葉は、神殿において神からの託宣を求めて祈る場合に用いられます(出エジプト33:7参照)。また、「床の上」とは主に祈り求める場所です(詩篇4:4など)。ですから、このおとめの姿は、わたしたちの神への祈りの姿を映しています。祈りを通して、主に切に求める私たちの姿です。しかし、神は簡単に捕まるお方ではありません。祈り求めても答えられない、なんの主からの応答もない、そのようなつらい現実をわたしたちは祈りの中で迎えることがあるでしょう。しかし、これは避けることができる現実ではなく、主を求めて祈る者が経験する現実なのです。
 さて、おとめは若者を見つけ出すことができたのでしょうか。夜警たちを過ぎて、しばらく行った時、突然のようにおとめは「わが魂の愛する者」を見つけ出しました。予想と期待を裏切るような、突然の良き知らせでしょう。そして、彼女は若者を掴んで、離さず、自分の母の家に彼を連れて行くのです(雅歌3:4)。彼女が諦めることなく彼を捜し続けたから、見つけ出すことができたのでしょう。しかし、それは彼女ひとりの意志で決まるものではありません。予想を裏切るような「突然さ」を彼らの再開に見いだすことができます。
 主を祈り求め、主からの答えをいただくためには、熱心に求めることが必要でしょう。しかし、情熱的に求めたら必ず主からの答えがいただけるとは限りません。予想を裏切るような時に、主が突然に、自らを示し、答えを告げて下さることは頻繁にあるからです。だから、倦むことなく、祈り続けるべきです。
 
III. 愛のおのずから起きる時まで(3:5)
 3:5は2:7の繰り返しです。おとめの切望の言葉が誓願の形で表されています。
 本来誓願は神に対して行うものです(「神にかけて誓う」など)。しかし、ここでは「かもしかと野の雌鹿」にかけて誓われています。興味深いことに、若者は「かもしか」や「若い雄鹿」にたとえられています(2:9)。さらに、「かもしか」はヘブル語で「ツァバオート」と読み、「万軍の主」の「万軍」とほとんど同じ発音です。また、「野の雌鹿」はヘブル語で「アイロート・ハッシャデー」と読み、「全能の神(エル・シャダイ)」とよく似た発音です。すばやく自由で美しい動物に若者を譬えつつ、実は主なる神にかけて誓っているのではないでしょうか。
 おとめが切望している内容はなんでしょうか。「愛が自分から喜んで起きる時まで、呼び起こすことも覚ますこともしないように」です(3:5)。無理やり刺激することによって、ふさわしい時ではないのに愛を呼び起こすことをしないでほしい、むしろ、愛が喜んで起こるその時までそっとしてほしい、と彼女は切願しています。愛は降って湧いてきたように起こるものではなく、十分に準備され、整えられ、訓練されてはじめて本物の愛となるのです。
 現代は「愛」があまりに安易に用いられています。しかし、クリスチャンが神を愛し、隣人を愛することは、一朝一夕で生み出されるようなものではありません。これらの愛には、神の愛を体験的に理解し、それを自分のものとして咀嚼し、隣人の愛し方を学んではじめて生み出されてくるという側面があるからです。ですから、「わたしには愛がない」と嘆く前に、「主よ、わたしを教え、整え、訓練して、あなたと隣人を愛することができるようにして下さい」と祈り求める必要があります。起きるべき時が来たならば、主はわたしたちに主と隣人をわたしたちのすべてをもって愛することができるようにして下さるのです。