神に出会う歌(雅歌1:1-2:7)

<今回から、六回で雅歌をします。ちなみに、教会では現在預言書を進行中。イザヤとエレミヤを三回ずつで終わって、明日からエゼキエル>
 
 雅歌は異色の書です。神や信仰に関する「宗教的」な文書が集められている旧約聖書の中で、男女間の愛の歌が綴られているからです。しかし、ユダヤ教キリスト教会の歴史を見る時、多くの人たちが本書を単なる「男女間の愛の歌」と考えず、神とイスラエル、またはキリストとと教会の関わりを表した宗教的な文書だと見なしてきました。そして、雅歌に関する数多くの注解書が書かれてきました。六回に渡って雅歌を学んでいきますが、本書の「男女間の愛の歌」の側面を心に留めながら、神と私たちのかかわりに思いを馳せたいと願っています。
 「ソロモンの雅歌」(1:1)とあります。ここで言う「雅歌」はヘブル語の「歌の中の歌」の訳であって、「最高の歌」を意味しています。しかし、単なる最高の「愛の歌」ではありません。ユダヤのラビであるアキバは、「すべての聖書は聖なるが、歌の中の歌(雅歌)は聖の中の聖(至聖所)である」と言っています。ソロモンが建築した神殿の一番奥、契約の箱を二つのケルビムが囲んでいる至聖所は神の王座の足台と理解されており、年に一度、大祭司しかそこに入ることはできません。しかし、歌の中の歌である雅歌を通して、私たちは至聖所にいたり、そこで神に出会い、神に祈ることができます。ですから、雅歌は神と人との間の愛を教える、祈りの書です。
 
I. 愛を求める(1:2-4)
 雅歌に含まれている詩の多くは、おとめと彼女の恋人の間で交わされる愛の歌です。まず、冒頭で、おとめは恋人に向かって口づけを求めています(1:2-3)。そして、口づけという愛の行為を通して表される「あなたの愛」が醸し出すぶどう酒にまさる味と香りをほめたたえています。香油にまさる彼のすばらしい香りを述べつつ、この芳香のゆえに多くのおとめたちは彼を愛する、と歌っています。続いて、おとめとおとめたちは交互に彼と共に行くことを願っています(1:4)。「行かせて下さい」とおとめが願うと、おとめ達は「あなたの後を急いでいきましょう」と応えます。おとめが「王はわたしを彼の部屋に連れて行かれた」と語ると、「わたしたちはあなたを喜び楽しみ、ぶどう酒にまさってあなたの愛をほめたたえる」と恋人を讃えます。ここで「王」とはおとめの恋人を指していると考えられます。
 ここに描かれているおとめの姿は、神殿で神に出会う民と似ています。神殿において語られる(くちびるをもって)主の言葉、そしてささげられる主へのささげものの香りとその味。神殿に溢れる香のかおり。全世界の王である主の部屋である神殿に導き入れられ、そこで主を喜び楽しむ(詩篇118:24参照)。主がなして下さった愛のわざ、つまり救いのみわざを覚えて、それをほめたたえる。おとめが恋人と彼の愛を慕い求める以上に、わたしたちは主の言葉と、主の愛と、主と共にいることを求めているのでしょうか。「主の恵み深いことを味わい知れ」(詩篇34:8)のみことばに素直に従っているでしょうか。
 
II. 愛する人を求めるおとめの自己紹介(1:5-8)
 おとめは自らを「黒いけれども美しい」(雅歌1:5)と語っています。彼女の黒さは人種ではなく、その身分、つまり農夫の家に属することを表していますから、彼女はみずからが高貴な出身ではないことを訴えているのでしょう。炎天下の下、男たちと一緒になって羊を飼い、ぶどう畑を守る(1:6)彼女は日に焼けています。それはアラビア出身の遊牧民であるケダル人が作る山羊のテントのようです。しかし、彼女は美しく、その美しさは、「ソロモンのとばり」(1:6)、ソロモン王が神殿の中と外をわけるために奉献した幕のようです。神殿の美しさのように、愛に満ちあふれている彼女は主の栄光に輝きます。
 ここでもおとめは恋人を求めています。「わたしの魂の愛する者」(1:7)は羊飼いのようです。どこで彼が羊を休ませているのか、彼女は知りたいのです。知ることができれば、そこに跳んでいくからです。しかし、彼がどこにいるかわからないから、彼の羊飼い仲間のかたわらに居て、みずからの身を外套に包んで(「さまよう者」ではない)恋人の現れるのを彼女は待たなければなりません。そこで、彼は彼女に他の羊飼いに従い、そこで子やぎを飼うように勧めています(1:8)。
 律法を読む時、「わたしの魂の愛する者」は主のことを指していることがわかります(申命記6:5)。そして、私たちが慕い求めるのは私たちの羊飼いである方です(詩篇23:1)。熱心に主を慕い求める者は、その愛の故に主の栄光に輝くことができます。どのような身分、立場であっても、「美しい者」です。
 
III. 互いを愛でる(1:9-17)
 おとめと恋人は互いの美しさをほめたたえます。まず、男性が女性の美しさをたたえます(雅歌1:9-11)。金や銀、宝石で飾られている彼女の頬や首の美しさのゆえに、彼女は「パロの車の中にいる一匹の雌馬」にたとえられます。そのあまりの美しさのため、あらゆる者が立ち止まり、恋い焦がれてしまうのでしょうか。一方で、女性は再び男性の「香り」に焦点を当てています(1:12-14)。彼女自身はナルド(多年草のカノコソウから抽出)のかおりをはなつ一方で、彼は没薬のかおり、さらには泉で有名な保養地エンゲデにあるぶどう園のヘンナ樹の多くの花房がはなつ芳香(バラに似たかおり)にたとえられています。そして、お互いを愛でる言葉のクライマックスにおいて、まず男性が女性に「あなたは美しい」と告白し(1:15)、続いて女性が男性に「あたなは美しい」(1:16-17)と応えています。
 「あなたの目ははと」(1:15)は、相手への愛を熱心に伝える情熱を表しています。その一方で、男性の住まいは緑、香柏、いとすぎ(1:16-17)。これらは神殿を建てるために用いられた建材です(列王紀上6:14-20)。ここでも、主の神殿に共に住みたい、というイスラエルの情熱と愛が表されています(詩篇23:6)。主と共に歩みたい、という単純とも思えるような情熱さえも認めて、「あなたは美しい」と語りかけて下さる方こそわたしたちの主です。人々の雑音から耳をそむけ、「あなたを愛している、あなたは美しい」と声をかけて下さる主の声を聞き、その方にすべてをささげようではありませんか。
 
IV. 園における愛(2:1-7)
 おとめと恋人はお互いの愛を花園にたとえています。おとめは自らを「シャロンのばら、谷のゆり(低地のスイレン?)」と呼び(雅歌2:1)、恋人もそのことを認めています(2:2)。おとめは恋人のことを「アプリコットの木(りんごの木)」とたとえ、実の甘さをほめたたえています(2:3)。また、お互いにお互いが唯一無比の存在であることを強調しています(「おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは」「わが愛する者の若人のたちの中にあるのは」)。おとめは彼によって酒宴の家に連れて行かれ、そこで一対一で彼に見えます。彼はそこでその愛の故に彼女を守ることを誓います。「旗」はその人が特別な存在であり、特別な守りを受けていることを指し示しているからです(2:4)。だからこそ、おとめは恋人が与えてくれる果物によって元気づけられ、彼に抱かれ続けることを願うのです(2:5-6)。
 女性の姿は回復され、命が与えられたイスラエルを、恋人の陰は主の神殿の陰に宿ることを示唆しています(ホセア14:5-7)。神のそばに宿り、その律法を頂くことは蜜よりも甘いと考えられていますから(詩篇119:103)、イスラエルが主のことばの甘さを讃えるのは自然でしょう。また、イスラエルはただ主だけを神とすべき存在であり、神はイスラエルをまず愛され、選ばれました。このような主との親しい関係、そのかいなに抱かれる親密さにわたしたちは与ることができます。