なぜ旧約聖書を解釈するのか

 10月から「旧約釈義」を教えるのだが、その準備のため、「なぜ旧約聖書を解釈するのか」という点について考えてみた。
 旧約聖書を読む時、なぜこれを「解釈」する必要があるのだろうか。ただそれを読み、それを自分の今の状況に当てはめたらいいのではないのだろうか。祈りをもって、聖霊の導きの中で読み、当てはめれば、それで十分ではないか。
 たとえ、祈り深く、聖霊に導かれていたとしても、単純な読み、単純な適用では十分ではないと考える。なぜならば、旧約聖書は「聖書」、「神の言葉」、「信仰と生活の基準」であり、クリスチャンはこれに対して「忠実に応答する」ように招かれているからだ。単に応答するのではない、「旧約聖書に対して忠実に」応答する必要がある。
 それでは、「忠実」とはどのような状況を言うのだろうか。祈り深く、聖霊の導きの中で、与えられうる最大限の力を用いて、旧約聖書が置かれている「文脈」に対して忠実であることが、ここでいう「忠実」な状況である。文脈には五つの側面がある。まず、目標としているテキストそのものの文脈。次に、テキストが置かれているより広いテキストという文脈。三つ目にテキストを理解するために必要な社会的、文化的、歴史的文脈。四つ目は正典である聖書(旧約新約聖書)という文脈。最後に、教会の信条という文脈。これらの文脈を十分に理解し、その中で、目標としているテキストを理解することこそ、聖書の「忠実な読み」である。そして、そのような読みに対して忠実に応答するように聖書のテキストは私たちを招いている。
 このように考えると、「忠実さ」というのは、決して簡単に達成できるものではない。そして、人間のもつ限界を考慮する時、忠実さには若干のばらつきがあるだろう。しかし、そのような限界の中で、祈り深く、聖霊の導きの中で、忠実に読み、忠実に応答すべきである。