主をおそれる

 「知恵の言葉」というと人間の経験から生まれた、人間中心の格言と思われがちです。しかし、箴言に納められている知恵の言葉はそうではありません。そこには旧約聖書が証ししている主なる神に関わる処世訓が満載されているからです
 
I. 主をおそれる
 「主をおそれることは人の命の日を多くする、悪しき者の年は縮められる」(10:27)。「主をおそれる」とはどういう意味でしょうか。それは「主がわたしたちの人生すべてを統べ治めておられることを認めて、その事実にふさわしく生きる」ことを指しています。「主に対して恐怖感をいだく」ことではなく、単なる「畏敬の念」でもありません。主の主権を認めること、そしてそれにふさわしく歩くこと:つまり、わたしたちの「生き方」に深く関わるのが「主をおそれること」です。ですから、「主をおそれる者」は悪しき者の道、曲がった道に歩まず、むしろ「まっすぐな道」を歩み、正義と公正を選び取るといわれているのです(「まっすぐに歩む者は主を恐れる、曲って歩む者は主を侮る」[14:2])。
 「主をおそれる者」には祝福が伴います。まず長寿。さらに、命の道、安心の道、災いから遠ざかる道を進むことができることです(「主をおそれれば命を得る、満ち足りて眠りにつき、災難に襲われることはない」[19:23、新共同訳])。「主をおそれる者」の上に鉄壁の守りがあるだけではなく、彼らの子孫に対しても主は逃れ場となってくださいます(「主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る」[14:26])。しかし、主をおそれず、むしろ人間の力に振り回され、彼らの脅威の前に屈する者の前には数え切れないほどの危険な罠があることを忘れてはいけません(「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」[29:25])。このように、世界の創造者の主権の下に宿り、この方に従って歩む時、不幸へと導く罠から逃れ、しあわせへの道をたどることができるのです。
 これだけの祝福が伴っているから「貧しくてもいい、富を獲得する機会を逸してもいい、ただ主をおそれよ」と箴言は語ります(「財宝を多くもって恐怖のうちにあるよりは乏しくても主をおそれるほうがよい」[15:16、新共同訳])。なぜなら、主をおそれつつ謙遜に生きる者にこそ「富と誉と命」が与えられるからです(「謙遜と主を恐れることとの報いは、富と誉と命とである」[22:4])。ですから、優先順位をはき違えてしまうならば、本当に必要なものさえ手に入らなくなってしまいます。わたしたちは、まず主をおそれることを求めるべきです(マタイ6:33参照)。
 
II. 主のみ手の中に生きる
 「主をおそれる者」は主のみ手の中で生きることを喜びます。では「主のみ手の中に生きる」ためには、具体的に知っておくべきことはなにでしょうか。
 まず、「人の心には多くの計画がある、しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ」(19:21)とあるように、必ず成就する「主のみこころ、忠告」に耳を傾ける事です。さらに、たとえ自らで考えた計画であっても、それを完成へと一歩一歩導かれるのは主であると認めることであり(「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」[16:9])、あらゆる事の最終的な決断は主が下されると確信することです(「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである」[16:33])。しかし、「すべてを主に委ねる」からといって、人間的な努力、計画を全く無視することではありません。戦いのために必要な準備をしっかりとしつつも、その戦いの勝利を決定する最終的権威者が主であることを認め(「戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による」[21:31])、その方のみ手の中に自らのなすべき事、さらにはその結果を委ねきることが大切です(「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」[16:3])。「委ねきった計画」を、主がそのみこころに従って最善の形で実現してくださることを信じる信仰こそ、わたしたちが抱くべき信仰です。
 もう一つ知っておかなければならないないことがあります。それはわたしたちの計画や生き方を主によって「精錬」していただくことです(「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」[17:3、新共同訳])。試練という「火」を通してわたしたちの計画や生き方の「不純物」が取りのぞかれなければなりません。主の賜る試練を通して、自分の目にとってはいさぎよく、また純粋であると思える生き方や計画の中にも秘められた「不純なもの」を見いだすことができるようになります。そして、主がわたしたちを見られるように自らを見ることができるようになるでしょう(「人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる」[16:2])。主に信頼し切った者は、主のみこころと共にその生涯を歩み続けることができます。
 
III. すべてを知っておられる主
 「主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている」(15:3)。注意深い見張りのように、すべての場所を、そしてすべての人を主は見ておられます。そして、わたしたちのすべて―正しい者であるか、それとも悪しき者であるかさえも―を主は知っておられます。だから、主をおそれ、公正と正義に生きる人を見つめておられる主は、彼らが飢えることがないようにと祝福を主は与えられます(「主は正しい人を飢えさせず、悪しき者の欲望をくじかれる」[10:3])。その一方で、主は高ぶる者のはかりごとを砕き、彼らの家を破滅へと導かれます。その一方で、主に頼る他ないやもめの地境を移すという不正が行われないようにと注意深く見守られ、彼女たちを最後まで支えられるのは主です(「主は高ぶる者の家を滅ぼし、やもめの地境を定められる」[15:25])。「公正な主がわたしたちのすべてを知っておられる」からこそわたしたちは堅く立って動かされず、日々全力を注いで主に喜ばれる歩みを続けることができます。世界は不公平に満ちているかもしれませんが、主はすべてをご存知で、最後にはつじつまを合わせて下さいます。
 さらに、「主がすべてを知っておられる」ということは「主をおそれ、正しく歩む者の近くに主はいてくださり、その祈りの声に耳を傾けておられる」ことでもあります(「主は悪しき者に遠ざかり、正しい者の祈を聞かれる」[15:29])。従って、主をおそれる者にとって「主がわたしのすべてを知っておられること」は決して脅威ではありません。むしろ、平安です。
 
 「何事にも目覚めている人は恵みを得る、主に依り頼むことが彼の幸い」(16:20、新共同訳)。主をおそれる者、それは主により頼む人であり、「何事にも目覚めている人」、つまり知恵に満ちた人です。聖書が語る知恵は、信仰によって養われていくものだからです。主の主権を認めて歩む者の幸いをかみしめつつ、主のみ手の中を知恵の言葉に従って歩み続けましょう。