言葉

 「知恵ある生き方」の特徴の一つは「言葉を制御する」ことです。「新約聖書の知恵文学」と呼ばれているヤコブの手紙にも「言葉を制御する」事の重要性とその難しさが述べられています(「もし、言葉の上で過ちのない人があれば、そういう人は全身をも制御することのできる完全な人である」〔ヤコブ3:2〕)。どのようにことばを用いるか、それは聖書全体の課題といっても過言ではありません。それでは、箴言は「言葉」についてどのように語っているのでしょうか。
 
I. 人格、言葉、共同体
 「正しい者の口は命の泉である、悪しき者の口は暴虐を隠す」(10:11)。わたしたちの人格はことばに現れます。知恵ある者、公正と正義に生きている者からは他者を生かす言葉が泉のようにわき上がってきます。その一方で神に喜ばれる生き方を求めていない者の言葉は一見素晴らしく聞こえることがあっても、その裏には死と暴虐とが隠されています。また、不信心な者(直訳では「神なしで生きている者」)はその言葉をもって隣人を滅ぼしますが(「不信心な者はその口をもって隣り人を滅ぼす、正しい者は知識によって救われる」〔11:9〕)、正しい者はその知恵の言葉によって多くの隣人を羊飼いのように養います(「正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚かな者は知恵がなくて死ぬ」〔10:21〕)。さらに、愚かな人が語る言葉によって争いが生みだされ、それは殴り合いに至ったりもします(「愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く」〔18:6〕)。
 言葉はそれを語る人の人格(「知恵に満ちた人」か「知恵を拒絶している人」か)を表すばかりではありません。その人の近隣に住む人々の生涯にも大きな影響を及ぼします。よいことばを語る人は命に満ちた祝福の人生を隣人に備えます。しかし、悪しきことばしか語らない人はその隣人をも滅びへ至らせてしまいます。ですから、ある町に住む人がどんな言葉を語っているかによって、その町の興亡が決定づけられるとまで箴言は言っています(「町は正しい者の祝福によって、高くあげられ、悪しき者の口によって、滅ぼされる」〔11:11〕)。このように言葉とは、その人が所属する共同体の運命をも左右します。
 
II. 「沈黙は金」
 「口数が多ければ罪は避け得ない、唇を制すれば成功する」(10:18〔新共同訳〕)。どれだけ知恵があり、自己管理ができている人であったとしても、多く語る時、ついうっかり他者を傷つけたりすることがあります。言う必要のないことを言い放ってしまうこともあるでしょう。しかし、言葉の少ない人は他者も自分も傷つけることなく過ごすことができます。ですから、自らの口を制御し、無駄な言葉がそこから溢れ出ないようにすることはは自らの命そのものを守っているに等しいのです。しかし、口に門口を建てる事ができない人は自らの命を失い、滅びへと進んで行きます(「口を守る者はその命を守る、くちびるを大きく開く者には滅びが来る」〔13:3〕)。門守は敵が門の中に入らないように守るのがふつうですが、人の門口である口は自らと隣人を破壊するような言葉が不意に出てこないように守るのがその役目です。この門守が適切に働いていない人は賢者とはなり得ません。敵は口の外にではなく、口の内にいるのです!なお、英語で「大きな口」(big mouth)は「おしゃべり」を指し、日本語では「偉そうなことば」を指しています。どちらにしても、「大口」はよいことではありません。
 多弁、雄弁がもてはやされる世の中です。テレビのバラエティーショーを見るとお笑いの芸人がむやみやたらにしゃべっている姿を見るでしょう。しかし、箴言は繰り返し「沈黙は金である」と語っています。事実、沈黙こそ最も簡単に自らの言葉を制御する方法です。知者は言葉が少なく、怒ること遅く、冷静に物事を見つめることができます(「言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である」17:27)。そのため、たとえ愚かな生き方をしてきている者であったとしても、沈黙しているならば、賢者と間違われることもあるのです(「愚かな者も黙っているときは、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じている時は、さとき者と思われる」〔17:28〕)。
 
III. どんな言葉を語るべきか
 「忍耐をもって解けば、君主も説得を受け入れる、柔らかい言葉は骨を砕く」(25:15〔私訳〕)。聞き手を説得しうる言葉とはどんな言葉でしょうか。賢者は、相手のことばに対して怒ることなく、むしろ忍耐をもって説得します。激しい言葉は、説得の障害以外の何ものでもありません。はてには相手の怒りを引きを越すかも知れません。それでは、知者の最大の武器はなんでしょうか。それは柔らかい言葉です。硬き骨をも砕くのは、きつく、ハッキリとした言葉ではなく、相手の心に響く柔らかい言葉です。さらに、怒りを静めるのも柔らかい言葉です(「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす」〔15:1〕)。また、聞き手に心地よい言葉(「甘い言葉」)こそ雄弁に相手を説得します(「心に知恵ある者はさとき者ととなえられる、くちびるが甘ければ、その教に人を説きつける力を増す」〔16:21〕)。真実な言葉、相手が信頼する言葉は聞き手の心に永く残りますが、信頼におけないような偽りの言葉はすぐに消えていってしまいます(「真実を言うくちびるは、いつまでも保つ、偽りを言う舌は、ただ、まばたきの間だけである」12:19)。
 「おりにかなって語る言葉は銀の彫り物に金のリンゴをはめたようだ」(25:11)。難しいことかも知れませんが、時にかなった適切な言葉は聞き手にとっても語り手にとっても宝です。聞き手を説得し、慰め、励まし、いさめ、救うことができるからです。確かに「沈黙は金」であるが、語るべき機会を逃してしまうならば「沈黙はわら」となってしまうことも心に留めておくべきです(「人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ」〔15:23〕)。
 神が言葉によって世界を創造されたことと比較すつとき、「人は言葉によってその人を取り囲む世界、共同体をつくりあげる」と言うことができるでしょう。事実、軽々しい言葉によって人の心を傷つけると思えば、知者の言葉によって人々の心に癒しを与えることができるからです(「つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす」〔12:18〕)。また、人々に癒しをもたらす言葉は「命の木」ともたとえられています(「癒しをもたらす舌は命の木、よこしまな舌は気力を砕く」〔15:4、新共同訳〕)。命に満ちた隣人に囲まれるのか、傷ついた隣人に囲まれていくのか。それはわたしたちの言葉次第です。神のめぐみによって言葉を制御できる者とさせていただき、命と癒しを言葉によってもたらす者とさせていただきましょう。