家庭と友情

 「人はひとりぼっちではない」とよく言われます。これは、家族や友人という共同体を形成する相手なしには、生きていけない人の現実がわかっているから、このように言われるようになったのかもしれません。世間一般のことばばかりではなく、聖書の知恵である箴言も家族と友人の大切さを教えています。
 
I. 親子関係
 「知恵ある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる」(10:1)。箴言1〜9章で繰り返し学んできたように、知恵は家庭に宿り、家庭を通して継承されます。だから、もし子を知恵ある者、神の正義に立って歩む正しい人に育てることができたならば、親たちの喜びは筆舌に尽くしがたいものです(「正しい人の父は大いによろこび、知恵ある子を生む者は子のために楽しむ」〔23:24〕)。その一方で、親に反抗し、その結果、放蕩者たちと連んで生きている子どもたちは親の顔に泥を塗るようになります(「教えを守るのは分別のある子。放蕩者と交わる者はその父を辱める」[28:7, 新共同訳])。なぜ子どもが知恵あり、正義に立つ生き方をしているか否かで、その親が辱められたり、ほめられたりするのでしょうか。それは、知恵の継承こそが親たちへの至上命令であるです。残念ながらこの知恵の命令を守ることのできない親たちは、共同体に対して恥を負う結果となります。知恵を継承することによって喜びと誉に満ちた家庭となるのか、知恵を継承できないために恥と悲しみに満ちた家庭となるのか、それは親次第であると言っても過言ではないでしょう。
 しかし、親だけを責めるのは間違っています。それは、知恵に満ちた家庭を継承する責任が子どもにもあるからです。子は親に祝福されるとともに、親を祝福する責任を負っています。だから、子どもは親をののしったり、呪ったりしてはいけません(「自分の父母をののしる者は、そのともしびは暗やみの中に消える」〔20:20〕)。それは、親を呪うことによって自らの上にも呪いを招き、光を失い、いのちと祝福を失うからです。さらに子はそれが親の所有物であっても盗んではいけない(「父や母のものを盗んで『これは罪ではない』と言う者は、滅ぼす者の友である』〔28:24〕)。やがて自分のものになるのだからいいじゃないか、という分別とけじめのなさは罪である。けじめをもって歩まなければ、自らの上に破滅を招くと箴言は語っている。
 それでは、知恵ある家庭を継承していく秘訣は何でしょうか。それは子を知恵によって訓練することです(「むちを控えるものは自分の子を憎む。しかし、子を愛する者は熱心にしつける」[13:24, 私訳])。体罰(「むち」)によって教え込むことの必要性を強調していると考えるべきでありません。むしろ、子を訓練する厳しさを親はもつべきであることを強調していると考えるべきです。子どもの思う通りになんでもする親は知恵を継承することはできません。さらに、できる限り早いうちに、知恵を会得するという希望のあるうちに訓練することが重要です(「望みのあるうちに、自分の子を懲らせ、これを滅ぼす心を起こしてはならない」〔19:18〕)。「三つ子の魂百まで」と言われます。年齢を経てからではもう遅い場合があるからです。ただし、親による訓育も限界があることを忘れてはいけません。なぜならば、子どもが両親による訓練をどう受け止めるかも知恵の継承の重要な因子だからです。両親からの訓育を喜び、主の戒めに聞き従う知恵ある子どもであるのか、それとも叱責としつけを嫌う愚かな子どもであるのか、子どもの態度も知恵の継承に大きな影響を及ぼします(「知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲らしめをきかない」〔13:1〕、「愚かな者は父の教訓を軽んじる、戒めを守る者は賢い者である」〔15:5〕)。訓育は人を確かに賢くしますが、それだけでは不十分です。なぜならば、知恵ある人は喜んでしつけを受け入れるからです。教えられやすい心をもたない限り、どれだけ親が教えたとしても、子は知恵の道を進むことはできません。
 家庭における知恵の継承が成功裏に終わったとき、老人にとって孫は自らの誇りとしてかがやく冠となります。また、知恵の手ほどきをしてくれた両親は子どもにとっての誉となります(「孫は老人の冠である、父は子の栄えである」〔17:6〕)。知恵が世々代々引き継がれていくならば、家庭においては年老いた者は若き者を誇りとし、若き者は年老いて者を誉と思うようになります。本当の麗しい家族の姿をここに見ることができます。
 
II. 夫婦関係
 「家と富は先祖から受け継ぐもの、賢い妻は主から賜るものである」(19:14)。夫婦関係はまず配偶者となる人を見つけだすことから始まります。聖書の世界では富や嗣業の地は両親から受け継ぐことができましたが、配偶者はそういうわけにはいきません。アブラハムがイサクの妻を見つけだすときに神の導きがなければ不可能であったように(創世記24章参照)、賢き配偶者は神からの賜物です。逆に言うと、良き配偶者をもっているということは神から祝福をいただいている証ということができるでしょう(「妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる」〔18:22〕)。ですから、賢き子どもと同じように有能な妻は夫の誇り、誉となります(「賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである」〔12:4〕)。この用に、素晴らしい家庭は人間の努力だけでは形成できません。神の導きが不可欠です。
 愚かな妻を配偶者として迎えた夫は悲惨です。争い、怒り、愚痴をこぼす妻をもつ夫にとって家庭は祝福の場ではなく、呪いの場となってしまいます。彼女と一緒に住むならば、吹きさらしの屋根の上に居を構えた方がましだとも、また人が住むことのできないような荒野に住む方がましだとも箴言は語っています(「争いを好む女と一緒に家におるよりは、屋根のすみにおるほうがよい」〔21:9〕、「争い怒る女と共におるよりは、荒野に住むほうがましだ」〔21:19〕)。
 
III. 友人関係
 「友の振りをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある」(18:24, 新共同訳)。友人にも色々な種類があります。単に仲良くすごすことだけを目的としている友人たちがいる一方で、兄弟よりも親密な関係となり、困難と悩みの時の助けとなってくれる友もいます(「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる」〔27:10〕)。「遠くの親戚よりも近くの他人」は聖書にも書かれています。友情は親子関係、夫婦関係にまさるとも劣らない祝福を約束するからです。しかし、友情はちょっとしたこと、例えば陰口や多弁でこわれていく可能性もあります(「偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる」〔16:28〕、「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる」〔17:9〕)。口をしっかりと守り、その上で相手の過ちを赦す愛に満ちた生き方をするならば、そこに友情が育てられ、それはなによりも頼もしい助けとなります。
 本当にわたしたちを愛している人はその愛ゆえに時折わたしたちに苦言を呈します。その結果、わたしたちが傷つくことがあるかもしれません。しかし、その傷は家族が、友人が本当にわたしたちにとって忠実であることのしるしであることを忘れてはいけません。いつもご機嫌とりのみに力を注いでいる人たちの偽りにだまされることなく、家族や友人たちの愛の忠告に耳を傾けつつ、知恵を受け継ぐものになりましょう(「愛する人の与える傷は忠実さのしるし、憎む人は数多くの接吻を与える」[27:6, 新共同訳])。