最後の招き:どちらを選ぶのか(箴言9章)

 箴言全体の導入部である箴言1〜9章の学びもいよいよ最後の第9章です。延々と続いてきた両親の息子への説得も最終弁論となります。息子は続いて知恵を学ぶのか、それとも学びをやめるのか、決断が求められる時となりました。そこで、両親は知恵と愚かさに自らの主張を息子に語ることを許しています。9:4と9:16は同じようなことばですが、その主張の内容は全く異なっています。二者択一、息子はどちらを選ぶのでしょうか。
 
I. 知恵の招き(9:1-6)
 まず知恵の招きの言葉に耳を傾けてみましょう。知恵はこの呼びかけに先だって、家を建て、宴の準備をしています(9:1-2)。ここで建てられている家は一体何を示唆しているのでしょうか。「物理的な家」を建てているとも考えられますが、ここでは「知恵を継承する家庭を建て上げている」と考えるべきでしょう。知恵を学ぶことによりその人の人格が形成され、その人を通して伝統を引き継ぐ家庭が形成されていくのです。ですから、知恵は健全な家庭を形成することを邪魔する不埒な女やギャングたちに対する警告を語り続けていたのです。また、8章では創造の神の世界を創造する能力を知恵は映していました。同じように、小宇宙とでもたとえることができる家庭を建て上げる能力を知恵は映しています。
 さらに知恵は宴を準備しています。不埒な女が準備した宴(7:14-15)にまさる素晴らしい食事(村中が食することができるほどの肉を提供する獣が屠られ、酒が調合され、食卓が調えられる)が準備されています。喜びに溢れた大宴会が知恵によって準備されています。これは喜びに溢れた知恵ある生涯、そしてそれを育てる家庭を示唆しています。また、主なる神のかたわらで天地創造を見て喜んでいた知恵の姿(8:30-31)をこの家庭は映していると考えられます。
 さて、知恵が主催する宴には多くの人が招かれていますいている。知恵は多くのはしためを町につかわすだけではなく、自らも町の高いところに立って人々に呼びかけています(9:3)。特に「知恵の教育を受けていない思慮浅い若者」に対して、心に知恵が欠けている若者に対して、知恵の宴に参加して知恵を頂き、家庭を建て上げる者になるためにこの宴に集え、と声をかけています(9:4)。この宴に参加するために自分の食事を準備する必要はありません。知恵が準備してくれたパンと酒を飲み、知恵の力に満たされて「家庭」を建て上げる能力を頂き、喜びに満たされて喜びと命に満ちた人生を送ることができるようになります(9:5-6)。招きに答えるならば、主が私たちに与えて下さる知恵は、喜びの生活に必要なすべてのものを備えて下さるです。だから、自らの思慮のないわざをすて、知恵の教育を受け、知恵に生きることを選ぶべきです。これこそ、知恵が主催している宴に参加することです。
 
II. 愚かさの招き(9:13-18)
 その一方で、愚かさを体現した愚かな女も自らの宴への招きの言葉をかけています(9:14)。愚かさも家を持ってはいますが、「建て上げる」という表現はありません。彼女はただ「騒々しく、みだら」、つまり混乱と知恵のない単純さに満ちているだけで(9:13)、何かを建て上げようとはしていません。ですから、愚かさに主なる神の創造の力は一切表されてはいません。家庭を建て上げず、むしろ家庭を崩壊へと導くだけなのですから。
 愚かさも道行く人に声をかけています。しかし、知恵ほど多くの人を招いているわけではありませんし、そのように願っているわけでもありません。自分一人で、横柄に座り込んで(9:14)、わずかな人々に誘惑の言葉をかけているに過ぎません(9:14)。彼女も知恵の教育を受けていない若者、心に知恵の欠けている者に語りかけてはいますが(9:16)、それと同時にまっすぐに歩もうとしている人たちに誘惑の手を伸ばしています。彼らが知恵から離れて、破壊へすすむ人生、死の陰と黄泉の深みへの招きです(9:18)。
 愚かな女も知恵と同様に宴を準備していますが、そこで準備されている食事は知恵とは全く異なっています。知恵が自前の料理と酒を準備し、それを人々に勧めていましたが、愚かさは「盗んだ水」と「ひそかに食べるパン」を食卓に並べています(9:17)。他者から奪い取ったもので宴を開こうとしてるのです。つまり、愚かさに生きるとは、他者を食い物にし、隣人の不幸の上に建て上げる人生、さらに自分の命をも破滅へと陥れる歩みと言うことができるでしょう。
 
III. 知恵は知者を建て上げる(9:7-12)
 このようにして、知恵と愚かさの招きの姿を見ていくと、愚かな者は愚かさに、知者は知恵、さらには創造主に似るようになることがわかります。家を建てる知恵に知者は似るようになり、家庭を建て上げる者となります。さらに、喜びに満たす知恵を頂いて喜びの人生を送り、主なる神の創造の力と秩序を知恵を通して受け取り、家庭を築き上げていきます。そして、知恵に満ちた家庭は喜びに満ちた生涯を約束しています。しかし、他者の不幸に基づいて宴を開く愚かさに似た愚かな人は、隣人が豊かな生活を送ることを妨害し、隣人の不幸の上に自分の人生を作り上げ、果ては自分の人生を破壊へと導いていくのです。
 このような知恵と愚かさの対照的な姿は、9:7-12にも見ることができます。「あざける者」また愚かな者は人々の訓戒に耳を傾けません。むしろ、彼らは忠告を与えた者を憎むようになります。ですから、彼らに忠告を与えるというのは無駄な行動であり、彼らを建て上げていこうとする努力は虚しものとなってしまうでしょう(9:7-8)。その一方で、知者は教えられやすい心を持っています。ですから、訓戒を与える人を愛し、他者からの勧告を有効に用いて自らは知恵から知恵に進んでいきます(9:8-9)。さらに、創造主に似たものへと変えられていく知者は、創造主を全世界の王、すべての主権者として認め、その祝福に生き、命から命へと進んでいきます(9:10-11)。そして、すべての創造者である主に似た者へと変えられていくのです。詰まるところ、知者、愚かな者、それぞれが自らの選択の責任を負い、その責任にふさわしい報いを受けます。
 
 両親は息子に対して知恵と愚かさの二つの道を示してきました。知恵を求め、知恵に生き、知恵を深め、創造主に似たものへと変えられていき、命に至る道を選ぶのでしょうか。それとも知恵を拒絶し、愚かさに生き、隣人を傷つけ、自らを傷つけ、破滅への道を下っていくのでしょうか。箴言はわたしたちに対しても同じように選択を迫っています。そして、全世界の創造主からわたしたちの選択にふさわしい報いが与えられます。主をおそれる知恵の道、知恵にある生き方を選び取り、祝福の人生を歩ませていただきましょう。