創造のはじめに造られた知恵(箴言8章)

 箴言1〜9章は言葉による戦い(舌戦)といっても過言ではないでしょう。両親の説得の言葉は言うまでもなく、おじいさん、知恵、ギャング、不埒な女など色々な人物が登場しては、黙って聞いている若者に声をかけています。わたしたちもそれを聞きながら、だれの声のことばに耳を傾ければいいのか、考えているのではないでしょうか。そして、最後には決断を迫られるのです。
 さて、第7章では不埒な女の誘惑の言葉を見てきました。本章ではそれに対抗して語る知恵の言葉に耳を傾けてみましょう。そして、彼女の言い分を聞いてみましょう。
 
I. 「不埒な女」対「知恵」
 第7章において、不埒な女は、夕刻、街角において、一対一で誘惑の言葉をかけてきました。ところが、知恵は、街角の目立つところ(高い壁の上、待ちの門)で(8:2-3)、たぶん昼間、一人をターゲットにするのではなく多くの人たちに語りかけています(8:4)。ことばの掛けかたは異なっていますが、どちらも「思慮のない者」、つまり知恵の教育を受けていない青年がお目当てです(8:5)。
 聖書が語っている知恵の言葉は、ある一部の人しか知ることができないような秘密ではありません。人の目から隠れた場所でしか話してもらえないようなものでもありません。多くの場合、知恵は日常的にわたしたちが聞いている、常識的な言葉をもってわたしたちに語りかけています。しかし、いつもこの「常識的な」ことばを聞いているがために、逆に注意を払わなくなる危険性があります。ですから、知恵の教育を受けていない者は、知恵のことばを無視してしまうのでしょう。その一方で、隠れたところで少数のものにしか語られないような言葉はわたしたちを引きつけます(「ここだけの秘密だけど・・」)。しかし、そのような場所で語られることばには、不埒な女の言葉のように人生を危険へと陥れる可能性が含まれています。ですから、いわゆる「一般常識」がいつも正しいわけではありませんが、この世界で生きるために必要な知恵の多くは、普通にそこここで語られているものであることを心に留める必要があります。
 
II. 知恵、正義、富:知恵のもたらす利益
 いつの時代も人々は金・銀・財宝を追い求めています。ところが、「知恵ある生き方」(「わたしの教」「知識」「知恵」)は富などのわたしたちが望むものよりももっと優れたものだと繰り返されています(8:10-11)。なぜ知恵は富にまさるのでしょうか。正義に関する基準がなくなり、混乱してしまった世界において、明確な善悪の基準を知恵は人々に提供するからです。それは確かな真実を述べ、偽りを憎み(8:7)、歪みのない純粋さをもち(「偽りとよこしまはない」〔8:8〕)、まっすぐな生き方の基準を与えます(8:9)。知恵のあるところには正義があります。それゆえに、知恵は富よりもまさっているのです。
 それだけではありません。知恵の持つ「正しさ」は国を治めるのに必要な資質を指導者たちに与えます。善と悪を適切に見分ける力を獲得した王や君侯たちは国に秩序を与えることができるでしょう。その結果、国民は安心感を抱いて生きることができます(8:15-16〕。国が正義によって治められるということは決して特別なことではありません。しかし、それが現実にそうではありません。ですから、「当たり前のことが当たり前になされる」知恵によって国は堅く立つことを統治者たちは忘れてはなりません。
 「知恵そのものが富よりも素晴らしい」と言われていました(8:10-11)。その一方で、知恵は「富や誉れ」「すぐれた宝と正義(口語訳では『繁栄』だが、こちらのほうがよい)」(8:18)という実を生み出します。特に注目すべきなのは、知恵が正義を生み出す点です。知恵は「正義の道、公正の道筋」を歩んでいます(8:20)。そして、そのような歩みから宝が生み出されます(8:21)。つまり、本当の繁栄は、正義のある所に生まれると箴言は理解しています。ですから、知恵は「精金」や「精銀」(8:19)よりすばらしいのです。人は目先の利益を求め、今ここでの繁栄を求めています。その結果、不正を行ってでも富を獲得しようとするのです。しかし、そのような形で得られた富の結末は多くの場合悲惨なものです。その一方で、ここでは、知恵を求め、そこから生まれる神に喜ばれる生き方を通して素晴らしい祝福と繁栄が与えられることを待ち望めと語られています。ビジネスに関わるクリスチャンの生き方は、ここで語られるようなものであるべきです。
 
III. 知恵が祝福をもたらす理由:創造と知恵
 知恵ある生き方が祝福をもたらします。それにはいくつかの理由があります。8:22-31からその秘密を垣間見ることができます。
 知恵は世界の一番はじめに神が造られたものであり、主がその被造物の真ん中にしっかりと立てておかれたものです(8:22-23)。そして、天地とその中に満ちるものが造られる前に自らが存在し、その創造の瞬間に自分がそこにいたと語っています(8:24-27)。その結果、知恵は、あらゆる被造物が造られる様をつぶさに見てきました。世界がどのように造られ、どのように秩序立てられているかを知恵は知っています。それゆえに、この世界でいかに生きるべきか、人生を操縦していくべきかについての適切な助言を知恵は与えることができます。
 さて、世界はどのように造られたのであろうか。世界にはどのような秩序が存在するのでしょうか。まず、天、地、海、海の中の水の源、山、丘、空、地の基とすべてのものは秩序をもって造られています。その一方で「淵の泉が堅く、また強く定められている」(8:28)ゆえに、海の水は絶えず人間に脅威となる可能性を秘めています。ノアの洪水を思い浮かべればわかるでしょう。水は一瞬のうちに世界を滅ぼすことのできる脅威です。しかし、そんな海もおそれるに足りません。なぜなら、神は「海にその限界を定め、水が岸を越えないように」(8:29)境界線を定められたからです。海が境界線を越えて侵入してこない限り世界は安全です。意志的にこの境界線を無視しない限り、世界の安全は保たれるのです。
 知恵が見てきた世界のすがたは、聞き手である若者が住んでいる世界とよく似ています。青年を混沌の海の中に投げ込むようなギャングたちや不埒な女が確かにこの秩序ある世界には存在します。しかし、「知恵ある生き方」を学び、それに従って生きている限り、彼らの脅威はおそれるに足りません。「知恵ある生き方」という境界線の内側にあるならば、知恵は人生を混沌へと導く死の力からわたしたちを守ってくれます。「知恵」に代表される創造の秩序に従って生きている限り、わたしたちは混沌をおそれる必要はありません。自らすすんで堤防を越える愚かな行いをしない限り、安全と平安が約束されています。
 さらに、知恵は神の創造の傍らで「乳飲み子(「名匠」と一般に訳される)として」(8:30)創造のわざを喜んでいました。実は、知恵ある生き方、創造の秩序に従って一定の境界線の中で生きていく生き方は喜びに満ちたもの、子どもの遊びのように楽しいものです。知恵はわたしたちを厳しく縛るものではありません。遊びの要素を秘めた、楽しい人生を知恵はわたしたちに約束してくれているのです。
 ですから、知恵を学び続けることによって、世界の創造の秩序に生きることを身につけましょう。そして、この混沌に満ちた世界において祝福と喜びに満たされて人生を送らせていただきましょう。