知恵よ、あなたはわたしの妹(箴言7章)

 箴言第1〜9章の間に「不埒な女(遊女)」は四回登場します(2:16-19; 5:1-23; 6:20-35; 7:1-27)。後半になればなるほど頻繁に登場することから、彼女の誘惑が現実的であったことが想像できるでしょう。彼女に関しては毎回念入りに語られていますが、本章ではいままでと少し語り口が異なっています。なぜならば、語り手は「不埒な女の誘惑の手口の実演」を行っているからです。そこで、どのように誘惑が来るのか、注意深く見てみましょう。
 
I. 自らを危険にさらす若者(7:6-9)
 本章の語り手は母親のようです。彼女は自分の家の窓からこっそりと不埒な女に誘惑されていく青年の姿をのぞいていました(7:6、士師5:28にでてくるカナンの王に属する軍勢の長シセラの母が彼女の息子の変えって来るのを窓から外をのぞいて待っています)。彼女が見た青年を「思慮のない者」、正確には「知恵の教育をまだ受けていない者」です(7:7)。知恵を学べば知恵に従って歩むことができるが、何もしなければ愚か者になってしまう青年です。残念ながら彼は知恵がないゆえに危険から自らを守ることができません。事実、二つの行動をもって自らを誘惑の危険にさらします。まず、誘惑する不埒な女の家のそばに寄っていき、彼女に出合う機会をつくり出しています(7:8)。さらに、夕刻に街角を歩くことによって、「誘惑に落ちてもだれにもわからない」という変な安心感を自らに与えています(7:9)。彼は知恵がないゆえの愚かな行動をとってしまいました。「君子危うきに近寄らず」ということわざは聖書においても真実です。
 
II. 不埒な女の誘惑、そしてその結末(7:10-23)
 「まだ知恵の教育を受けていない者」が紛れ込んでいった街角では不埒な女が猟師のように彼を待ちかまえていました。遊女のような服装で、本心を見せず(口語訳は「陰険な女」)、騒々しく、慎みのない反抗的な彼女(7:10-11)は、人が多く集まる広場や市場をそぞろ歩いて獲物(!)を探していました。そして、すべての曲がり角で、蜘蛛が巣を張って獲物を待つように彼女は立っていました(7:11-12)。そこで、彼女は「’知恵の教育をまだ受けていない若者」に出会います。そして、彼女は大変巧妙に彼を誘惑しはじめます。
 彼女はどのようにして彼を誘惑するのでしょうか。開口一番、彼女は、自らが酬恩祭の献げものし、その犠牲を今晩中に食べてしまわなければいけないと若者に告げています。「そのためにあなたを捜していたのだ」と(7:14-15)。彼女はみずからが敬虔なイスラエルの民であることを示していますし、レビ記7:11-18を読むと酬恩祭のささげものはその日のうちに食べてしまわなければなりません。彼女は若者に自分の家を訪れる「正当な」理由−−夕食を食べる−−を与えているのです。次に、彼女は自らの家の寝室の美しさを語っています。当時の世界の珍品(美しい敷物、エジプト製の色糸で織った綾布、アラビヤ製の没薬にインド製のアロエ、そしてシナモン)に満ちている寝室の情景は若者の創造力を刺激します(7:16-17)。そしてついに彼女の本音が語られます。「一緒に愛を交わしましょう」(7:18)。これは性的な関係への誘惑です。そして、夫は遠くに行ってしばらく帰ってこない(多くの金を持っていった、満月の時まで帰らない〜二週間ほど?)から大丈夫だ、だれにもばれない、という殺し文句で彼女は誘惑を終えるのです(7:19-20)。
 不埒な女の誘惑の言葉は説得力があります。若者は単に「惑わされる」(7:21)のではなく「彼女に説き伏せられ」(7:21新共同訳)、彼女のあとをすぐさまついていきます。罠にかかって、あとは死を待つのみの動物たちのような彼の姿が目に浮かびます(7:22-23)。知恵の教育を受けていない若者は、自らを誘惑の危険にさらしたのみならず、「自らの欲望」のゆえに(7:23新共同訳参照、口語訳の「自分が命を失うことを知らない」は誤訳か)、不埒な女という猟師の仕掛けた罠にとらえられて生きました。自ら進んで罠にはまっていくのです。
 
III. もう一つの声、母の声(7:1-5, 24-27)
 不埒な女の誘惑と誘惑に負けた若者の結末を語った後、息子の母は「わたしのことばに耳を傾けなさい」と息子をします(7:24)。不埒な女の説得のことばではなく、親のことばに従いなさい、と訴えかけるのです。そして、息子に命じます。「不埒な女の道に心を傾けてはいけない、彼女の道に迷い行ってはいけない」。彼女の道は自らを傷つけ、自らの命が奪われる道であり、死への道、読みへの道だからです(7:25-27)。ここでいう「道」には二つの意味があります。一つは「彼女の誘う生き方」という意味での「道」。不倫という生き方、欲望に押し流されて死へと進んでいく生き方です。もう一つは「実際の道」、つまり知恵の教育を受けていない若者が迷い込んでいった、不埒な女が待ちかまえている道のことをさしています。自らを危険にさらすな、と彼女は訴えているのです。不埒な女の家の玄関は文字通り「陰府への道」に続いていると母親は考えました(7:27)。
 危険な道を避ける以外に、具体的にはどのようにすればいいのでしょうか。母は息子に対して「知恵を得よ、そして命を得よ」と警告しています(7:2)。知恵があれば不埒な女の誘惑に陥ることはないことを彼女は知っていますから、知恵を学び、知恵あるものとして歩むように彼に奨めているのです。さらに、母の説得の言葉の中で注目すべきは「知恵に向かって『あなたはわたしの妹』と呼べ」(7:4)という表現です。「妹」とは文字通りの「女兄弟」ではなく、「わが恋人」、「わが妻」という意味があります(雅歌4:9参照)。知恵の教育を受けていない若者は、隣人の妻を「わが恋人」と求めていったゆえに悲劇に陥りました。しかし、知恵の教育を受けた者は「知恵こそわが恋人」と求め続けています。つまり、人の人生は何と親密であるか、誰と親密であるかで決められるのだ、と彼女は息子に伝えているのです。
 
 箴言第7章は二つの声の対決の場ということができるかもしれません。「知恵をおのれの恋人とせよ」と説く母の声と「隣人の妻をおのれの恋人とせよ」と説く不埒な女の声の両方が本章から聞こえてきます。どちらの声も説得力があります。罪の誘惑の声もまた強いからです。しかし、もしわたしたちが「知恵とみ言葉」によって整えられていくなら、たとえ説得力のある罪の誘惑にあったとしても、命の道を選ぶことができます。続けて、聖書の言葉によって整えられたいものです。