三つの訓戒(箴言6章)

 いままでの箴言の学びは「知恵」そのものを学ぶよりは「知恵を学ぶための指針」を学ぶものでした。それでは、「知恵ある生き方」とは具体的にはどのような生き方なのでしょうか。第6章に書かれている三つのメッセージからそれを学んでいきましょう。
 
I. 時を逃すな (6:1-11)
 怠け者に対して「アリの所に行って、そのすることを見て、知恵を学べ」と語られています(6:6)。アリには全体を司る指導者(かしら、つかさ、王)がいないように見えます。ところが、穀物の収穫の時期、つまり夏になるとちゃんと働いて、必要な糧を得ています(6:7-8)。ところが、王のような指導者がいる人間の世界にありながら、怠け者は「刈り入れの季節」となっても働こうとせず、絶えず眠り、まどろんでいます。その結果、収穫の時を逃します。そして、盗人のように貧困が突然訪れます。もはやそこから逃げることはできません(6:9-11)。このように、「働くべき時に働く、時を逃さない」生き方をアリから学ぶことができる。ここでいう「勤勉」とは「いつでも働いている」という意味ではなく、「時をわきまえて働く」点であることを忘れてはいけません。休むべき時には、休むべきです。
 「時を逃さない」という意味での勤勉さは、別の時にも重要になってきます。ここで描かれているのは、隣人の借金の保証人となってしまったケース。イスラエルでは自らの親戚の借金の保証人となることは一般的でした(ルツ記におけるボアズなど)。しかし、親戚以外の人々の借金の保証人となることは本来禁じられていました。しかし、軽率にも他人の借金の肩代わりをする誓いをなし、さらに実際に支払いをしなければならないような事態になることがあったのでしょう。そこから逃れる為にはどうしたらいいのでしょうか。「時を逃さず」、すぐにその隣人の所へ行き、その重荷から逃れることができるようにひたすら懇願せよと奨められています。眠り、まどろんでいるならば、時を逃してしまいます(6:1-5)。怠け者はそんな危機的な状況下から自らを救い出すことが決してできません。このように、勤勉の本質は、チャンスを逃さず、チャンスを見きわめる事です。いつまでも休まず働き続ける事ではありません。
 
II. 主が憎まれるものとなるな (6:12-19)
 旧約聖書には「数え歌」の形式があります(箴言30:15-31参照)。6:16-19は数え歌の形式をとっており、「主が憎まれるもの」がそこに七つ記されています。最初の五つは人の体の部分が書かれています。高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき者の血を流す手、悪しきはかりごとをめぐらす心、速やかに悪に走る足。最後の二つは人です。偽りを口から息を吐き出すように吐き出す承認や兄弟のうちに争いを起こすもの。一番最後の項目が全体をうまくまとめています。共同体の交わりを破壊していくトラブル・メイカーを主はお嫌いになられます。ですから、自ら高ぶり、人を見下げ、偽証し、無罪のものを陥れ、悪しき行いを企てることによって交わりを破壊する者となってはいけません。
 6:12-14に描かれている「よこしまな人、悪しき人」も前述の「主が憎まれるもの」の同じ特徴を持っています。偽りの言葉、人を陥れるように出す仲間内のサイン(まばたき、足をこする、踏みならす、指で示す)、人々のうちでいさかいを起こす悪しき計画。かれらも共同体の交わりの中に調和ではなく摩擦を生み出そうとしています。しかし、主なる神は共同体の交わりを破壊しようとする「悪しき人」をそのままにはしておられません。彼らに対して神の裁き、「災い」が突然に臨むのです(6:15)。もはやそこから救われる可能性のない、逃げることのできない突然の災いが襲いかかります。このような主の考えを知っているからこそ、わたしたちは「主が憎まれるもの」とならず、むしろ、交わりをたて上げ、破れを繕う「主に愛される者」とさせていただきましょう。
  
III. 不倫をするなかれ (6:20-35)
 最後の訓戒は第5章の続きです。「不倫の関係を避けよ」という当然の事が書かれています。現代でも不倫が「火遊び」とたとえられていますが、箴言も隣人と妻との不倫関係を「火」と比較しています(6:27-29)。火を懐に抱く者は服を焼き、熱い石炭の上を歩く者はやけどをします。火はそれを懐に抱える者を傷つけていきます。「隣人の妻をその懐に抱く」不倫も火と同じ災いを人にもたらします。それを行う人自身を傷つけます。自己破壊の道です。それだけではない。「不倫、姦淫」の罪でとらわれたならば、その時にたいそう大きい価を払うべきです(6:30-35)。自らの飢えを満たすために仕方なく盗む人さえも、捕まった時には厳粛な処罰を受けなければなりません(七倍の償いと家財の没収)。隣人の妻を奪う不倫の罪は、それ以上の処罰を受けるのは当然です。自らの人生を棒に振り、はずかしめの傷を受け、一生消されることのないとがを負うようになります。更に、隣人の妻の夫の憤りとねたみ、恨みの大きさのゆえ、もはら和解の糸口も見いだせなくなります。不倫というひとときの快楽のために人は莫大な値を払わなければならないのですから、不倫ほど割の合わない行動はありません。だからこそ、そのような行動を避けるように箴言は語っています。
 「知恵の言葉に絶えず耳を傾け、それによって生きる」人は、割の合わないそのような人生を送ることはありません(6:20-22)。なぜなら知恵の言葉は「ともしび」であり「光」だからです(6:23)。不倫などの行動がいかに危険であるかを告げるともしびを知恵はわたしたちに与えてくれます。知恵の言葉さえ身につけているならば、どんな暗い道に迷い込んだとしても、どんな困難な人生に陥れられたとしても、光をかかげて歩むことができます。そして、人生すべてを失うような失敗に陥らないように、知恵の言葉という光がわたしたちを守ってくれます。
 
 知恵の言葉こそ「わたしたちのともしび、光」です。そして、この光がわたしたちに「時を逃さない勤勉さ」を「主が憎まれるもの」が何なのかを、そして「不倫」がいかに割が合わないか示してくれます。祝福に満ちた人生の秘訣は灯である知恵の言葉を掲げながら進んでいくことです。