知恵は家庭を守る(箴言5章)

 今までの箴言の学びからもわかるように、旧約聖書の知恵は家庭において親から子どもへと伝達されるものです。そして、知恵が継承されるのは、祝福に満ちた家庭の継承が行われるように意図したものでした。そんな家庭の継承を脅かす敵はなんでしょうか。それは青年を誘うギャングたち(1:10-19)であり、「よその女」(または不埒な女)とよばれる女性(2:16-19)です。口語訳では「遊女」、新改訳では「他国の女」と訳されていますが、彼女は決して異邦人ではありません。しかし、イスラエルの民でありながら知恵を重んじず、夫婦の関係を重んじないので、箴言はあえて彼女のことを「よその女」と呼んだのです。しかし、「よその女」とは呼ばれていますが、現代的に考えると男性にとっては「不埒な女」であり、女性にとっては「不埒な男」でしょう。家庭を簡単に崩壊に招いてしまう異性の問題がここでは取り扱われているのです。
 
I. 知恵は「不埒な女」からあなたを守る
 家庭を崩壊へと導いている「よその女」から青年を守るのは一体なんでしょうか。それは知恵の言葉です(5:1, 7)。知恵を心に留め、耳を傾け、それに従うことによって、慎みある生き方を保ち続けることができます。そして、唇が知識を守るのです(5:2)。「唇が知識を守る」はおもしろい表現でしょう。しかし、若者を誘惑する「よその女」の姿から考えるとこの表現はなかなか核心をついています。「唇に密を滴らせ、上顎が油よりなめらか」な女(5:3)は単に言葉のみならずその甘い口づけをもって青年を誘惑します。彼女に口づけされふらふらとなった若者は、あたかも「唇から知識を奪い去られる」かのように警告を忘れて彼女の誘惑の深遠にはまっていくのでしょう。人生の苦々しい結末を刈り取らなければならなくなります。そんな事態に陥らぬように唇に知識を守らせよ、甘い口づけにだまされるな、と箴言は青年に語っています。
 「よその女」は青年から知恵を奪い取るだけではありません。その甘い口づけはやがて苦々しく、かつ厳しい人生の結末へと彼を導いていきます(5:4)。命がこの「よその女」によって切り裂かれ、そのような痛みから逃げようとしても逃げることはできなくなります。不倫は苦き人生の結末へ青年を招くのです。それだけではありません。「よその女」を「死へのジェットコースター」と呼んでも過言ではないでしょう。彼女は自らの手に掛かった男たちを死と黄泉まで引っ張って行きます(5:5)。彼女に捕まったものは、罪の縄目に捕らえられ、ふさわしい刑罰につかまえられてしまいます(5:22)。「甘き言葉、甘き口づけ」が「苦い人生の結末」にその人を導き、最後は死へと進んでいきます。一時の快楽が永遠の滅びヘの道となるのです。
 
II. 「不埒な女」と若いときからの妻
 箴言は「命を奪い去る『よその女』に近づくな」と繰り返し青年に奨めています(5:8)。それは、彼女に近づくならば、今まで長年に渡って築きあげてきた尊敬や財産が奪われ、さらに自らの命さえも取り去られるからです(5:9)。しかし、彼女のもたらす災厄はそれに留まりません。「軒下を貸したら母屋を取られた」と言いますが、よその女の門口に近づいたがゆえに本来は次の世代に受け継がれるべき富や名声がほかの人のものになってしまうといわれています(5:10)。「不埒な女」に近づいたがゆえに、「不埒な、よその人たち」にすべての財産が奪われてしまうのです。自分が苦しむだけなら、「個人の責任だ」と言ってしまうことも可能でしょう。しかし、尊敬や財産を失うことによって、自らにつながるあらゆる家族に大きな影響が及ぶのです。
 最悪なことは、そんな悲劇的な事態に陥ってはじめて目が開かれ、自分の失敗の原因が分かる、という現実です。「後悔先にたたず」です。そして、「知恵の言葉に耳を傾けなかった」から、「両親が与えてくれた訓練を嫌った」からこんな惨めな状況になったのだ、と気がつくのです(5:12-13, 23)。「もし知恵があればこんな悲惨な事態にならなかったのに」と悔やむでしょうが、時すでに遅し。
 しかし、すべてが終わりではありません。ここで語られている訓戒の言葉を聞いている若者にはまだチャンスがあります。今から知恵の言葉に心を向けるならば、そんな悲惨な人生に陥らなくてすみます。命を得ることができます。だから、そのような人に引っかかるな、今引っかかっているのに気がついたら、すぐに離れよ、と箴言は訴えています。
 愚かで悲劇的な人生へ導く誘惑があるのは事実です。しかし、祝福と命へと導く道もわたしたちの前に備えられています。それは「若き時からの妻」を愛し続け、「よその女」には近づかない人生です(5:18)。若き時からの妻は祝福ある生活の生命線である井戸にたたえられています(5:15)。聖書の世界において、井戸の水はすべての祝福の土台です。それと同じように、妻と共に歩む生活は祝福の水が自らの人生に広がり、それを他人に奪い取られることはありません(5:15-18)。なお5:16は「その源はあふれ流れて、広場に行くすじもの流れができるであろう」(新共同訳)のように理解すべきです。つまり、「若き時からの妻」への愛は祝福を拡げ、潅漑のように土地を潤し、命を与えます。
 夫婦の間の愛が冷め、様々な悲劇が起こっています。箴言の言葉は古くさく聞こえるかも知れませんが、家庭を大切にすることによって、夫婦が互いに愛し、支え合うことによって祝福に満ち、それが広がっていく家族が育つことは時代を超えて真実です。
 
III. 主が人々の歩みを見ておられ
 聞き手の青年は一つの選択を迫られています。祝福した家庭を築き上げるのか、それを拒絶するのか。知恵の言葉に耳を傾けるのか、無視するのか。若き時からの妻の愛情に夢中になり、酔いしれるのか、それとも「よその女」に酔いしれ、彼女を胸に抱くのか(5:19-20)。「よその女」に夢中になることは「愚かさに夢中になること」に他ならならず、その行く先は滅びなのですが(5:23)。
 二つの道のどちらかひとつをわたしたちは選ばなければなりません。真ん中に留まり続けることはできないのです。そして、主はわたしたちがどの選択をしたかをご存知です。そして、その選択にふさわしい結末がわたしたちの上にやってくるのです。それと共に、主は数多くの人の歩みを見てこられました。ですから、主の語る警告は真実です。知恵を選ぶか否か、そして知恵にしたがった歩みをするか否かという選択はそれぞれの人に迫られています。そして、選んだ生涯にふさわしい結末がそれぞれに与えられるのです。現実に裏打ちされた警告が与えられています。わたしたちはそれに耳を傾けるのでしょうか。
 
 「よその女」はわたしたちの周りに多くいます。いわゆる若き青年の「不倫」だけを指すのではありません。わたしたちの祝福を奪おうとする甘い罠、老若男女、すべての人を陥れる「よその女」がわたしたちをねらっています。そして、わたしたちはそのような罠にはまったときどのようになっていくかをいろいろ見てきているのです。甘い罠に捕らえられて、苦い結末を迎えるのか、それとも知恵の言葉に耳を傾け、祝福にあふれる家庭を主から頂くのか。警告を与える主はそんな責任ある選択を日々わたしたちに迫っておられます。