知恵ある生き方:神を愛し、隣人を愛す(箴言3章)

 知恵ある生き方は具体的にはどういうものでしょうか。箴言第3章で教えられているものから、「神を愛し、隣人を愛せ」とまとめるっことができます。これはイエス・キリストがマタイ22:34-40で語っておられることそのものと言えるでしょう。それでは、箴言の語る「神を愛する」こと、「隣人を愛する」ことはどのような生き方なのでしょうか。
 
I. 祝福の源である知恵ある生き方(3:1-2, 13-24)
 まず「知恵ある生き方がもたらす報酬」について少し学んでおきましょう。知恵は祝福にあふれた人生、特に長寿の祝福(平均寿命の短い時代)、さらに繁栄(「平安」とも訳されるが、ここでは心の平安という意味ではない)を約束しています(3:1-2)。さらに「安全と安心(歩いても躓くことのない歩み)」、安心から生まれてくる十分な睡眠をも「知恵ある生き方」は与えてくれる(3:21-24)。
 知恵はなぜ繁栄と安全ををわたしたちに約束してくれるのでしょうか。神は地の基をすえ、天を定められました。そして今や海をわきいでさせ、雲が露を注ぐことができるように導かれました。神が造られた世界は渾沌としている場所ではありません。秩序があります。なぜなら、神は「知恵と悟り」をもって世界を創造されたからです(3:19-20)。ですから、もし「知恵と悟り」をもって私たちが生きていくなら、神が天地を造られたその秩序(つまり知恵と悟り)をわたしたちが体得していくならば(3:13)、人生は命と祝福に満ちたものとなります (3:18)。下に根をはり、上に実を結ぶようになるでしょう。「創造の秩序に合わせて生き」ているからです。
 
II. 神を愛する(3:5-12, 25-26, 32-35)
 それでは、天地創造の秩序に合わせて生きるとは具体的にはどのような生き方でしょうか。まず、「神を愛する」生き方を考えてみましょう。
 「神を愛する」ことにはいくつかの側面があります。第一に、主なる神を信頼し、その一方で自分の知恵を過剰に信頼しないこと (3:5-6)。「知恵を学びながら、知恵に過剰に信頼しない」という表現は、一見矛盾しているようです。しかし、そうではありません。むしろ、このことは世界の特筆すべき姿を私たちに教えてくれています。それは「世界には『遊び』がある」。この世で起こる出来事はなにごとも厳密に規則通りにすすむのではなく、世界には常に「神の介入」の余地があります。だから、知恵によって教えられたとおりに全てのことがいつもすすむとは限らないのです。そして、「神の介入の余地」を認めることこそ「神を愛すること」であり、知恵に生きることです。「主をおそれること」(3:7-8) は「主への信頼と従順、そして人間の限界の認識して生きること」と言い換えることができるでしょう。そして、「悪から離れ、主に従います」。
 第二に、「主に信頼する」ものは最上のものを主にささげます(3:9-10)。神は「多くささげる者は多く受ける」という秩序をもってこの世界を造られています。主が必要なものは必ず与えてくださるとの信仰に立って生きることを、主は進めておられるのです。人の知恵は「神に多くささげることは損である」と語るでしょうが、この考えには大きな限界があることを認めるべきです。
 第三に、自らの過ちによって悲惨な状況に陥る時、それを「主の懲らしめ、訓練」の時であると理解すること(3:11-12)。自らで失敗を犯すことによって、自らの知恵の限界を経験しつつ、主が確かにいまも生きて働いていることを悟るっことができます。両親が子どもに失敗を経験させることによってよりふさわしい生き方を学ばせるように、神も私たちの失敗を人生の学習の場として用いようとされています。失敗をおそれていては信仰の成長はありません。「失敗」を主の訓練と見て取ることができるように自らの心を整えるべきです。
 主を信頼することによって神を愛する者には、先に述べた報酬が約束されています。突然恐慌がおそってきたりするかもしれません。また、悪しき者がわたしたちのかたわらで滅ぼされたりすることがあるかもしれません。しかし、そのような状況にあったとしても「知恵ある生き方」を送る者はおそれるに足りません(3:25-26)。それは、主は自らを信頼する者を守られるからです。その一方で、主に信頼しない者にはのろいとあざけりと辱めが待っています(3:32-35)。このようにして「主を愛する者」を主は豊かに報われます。
 
III. 隣人を愛する(3:3-4, 27-35)
 それでは、「隣人を愛する」とはどんな生き方でしょうか。
 まず、自らの手を喜んで隣人に広げる、積極的な隣人愛の姿です(3:27-31)。もし、隣人のために何かよきわざをする力が与えられているなら、また隣人が自分のもっている力を必要としているなら、すすんでよきわざを行うべきです。周りに遠慮するべきではありません。「あとでする」のではなく「いま」隣人のために自らの力を用いる生き方こそ隣人愛の現れです。相手の忍耐力を試すことをしてはいけません。
 逆に、もし隣人が安心して生きているならば、彼らに悪を計ってはいけません(3:29-30)。これは消極的な隣人愛の姿でしょう。「隣人が安心して、安全に生きていること」こそ自らの安心であり、安全であるからです。不必要な訴訟も避けるべきです。もちろん、正当な訴えがあるならば、それを行うべきです。どちらにしても、「隣の芝生は青い」ではなく、「隣人の幸せはわたしの幸せ」であると考えることこそ「隣人を愛する生き方」です。
 最後に、暴虐と不正によって栄えている人をうらやましがってはいけません(3:31)。悪しき方法によって栄えている人たちは確かにいます。。彼らは隣人のために労することもしませんし、むしろ隣人に悪をたくらむ人たちです。しかし、しかし、世界の創造者である主が彼らにふさわしい報い、裁きを与えられます。呪いと審判が彼らに与えられるでしょう(3:32-35)。
 こうしてみていくとき、「隣人を愛する」生き方とは「隣人に対して慈しみとまことをもって生きる」ことであることがわかります(3:3-4)。隣人との約束に対する忠実さ(「慈しみ」)と隣人の信頼に的確に応えることのできる人格(「まこと」)を身にまとって生きるとき、私たちは「知恵ある生き方」を歩んでいます。頼りがいのある隣人となることができます。そして、恵みと誉れを人と神の前で得ることができるでしょう。
 「神に信頼する者は悪から離れる」(3:7)とあります。この言葉からわかるように、神を愛する生き方は当然隣人を愛する生き方を生み出します。隣人の祝福と安全こそ自らの祝福と安全であると確信して、隣人に仕えていく者となりたいものです。神は私たちが隣人に仕え、共に生きていくようにとこの世界を知恵と悟りをもって造られたのですから。