知恵への招き(箴言1:1-7)

 今回から箴言。ちなみに教会では来週から雅歌の学びをする予定。これで、ソロモン三部作をまとめてしたいのだが。
 
 「生き方のヒント」に関する書籍が書店にあふれています。もちろんそれらは有益でしょうが、クリスチャンには「生き方のヒント」を集めた書、箴言があります。そこには多くの「教訓の意をもつ短い句、戒めとなる言葉」(岩波国語辞典)が含まれています。それと共に、なぜ知恵を学ぶべきなのか、そして知恵を学ぶ結果なにがおこるのか、これらのことが導入部(1〜9章)と結論部(31:10-31)にしるされています。
 1:1を見ると、箴言は「ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言」であるとしるされています。知恵を求め(列王記上3章)、さらに数多くの知恵の言葉を説いた(4:29-34)この王と旧約聖書の知恵とは密接に結びついています。それと共に、箴言には当時の古代社会(エジプトやメソポタミア)にあまねく広がっていた言葉、後の世の人が集めたもの(箴言25:1)、ソロモン以外の人々の言葉(30:1; 31:1)も含まれています。ですから、箴言は、ソロモンが集め、伝えた知恵の言葉が、後の人たちによって編集され、付け加えられてまとめられたものであると考えることができます。
 
I. 初級者のために(1:2-4)
 標題に続いて、箴言がまとめられた目的が1:2-6に描かれています。前半は知恵を学びはじめた初心者のために書かれ、後半はすでに学んで知恵を得ている人のために記されています。
 箴言の目的は「知恵」、つまり箴言によって語られるメッセージを自分のものとすることです。しかし、この知恵は単なる知識の蓄積に留まるものではありません。それは「教訓」を獲得することです(1:2)。ここで「教訓」と訳されている語は「しつけ」とか「訓練」のニュアンスがあります。1:3にある「賢い行い」(直訳すると「知恵の教訓」)という表現からもわかるように、箴言を学ぶことの目的には、「賢明な生き方」を学ぶことであり、全人格的な美徳を身に付けることが含まれています。ですから、箴言の知恵の学びは、人格教育と言うこともできるでしょう。
 箴言を学ぶことを通して人格が豊かにされることは1:4をみるとよくわかります。「思慮のない者」(正確に言うと、学ぶ能力はあるけれども、知恵を学ばないでいるとやがて愚か者になってしまう存在)が「悟り」を受け、「若い者」が「知識と慎み」のある者になるのですから、これほど素晴らしいことはないでしょう。「悟り」と聞くと「心の迷いが解けて真理を会得すること」(岩波国語辞典)と考えがちですが、聖書においてこの言葉は注意深さと慎重さを意味します。ちょっとしたことに過激に反応するのではなく、むしろ大人として一歩引いて自分を客観的に見直せるような人は、箴言のいう「悟り」に満ちています。「慎み」にも「悟り」同様のニュアンスがあります。
 しかし、たとえ注意深さと慎重さが重要であったとしても、それだけでは不十分です。アダムとイブを誘惑した蛇さえも「狡猾」(「悟り」と同じ語源)でした。これらは使い方をひとつ間違えると、他者を傷つけてしまうからです。では、わたしたちは知恵を学ぶことによって得た力をどのように用いればいいのでしょうか。わたしたちはこの「悟りと慎み」を「正義と公正と公平」の達成のために用いなければいけません(1:3)。隣人を傷つけていくような「知恵」は箴言が語っている「知恵」ではありません。むしろ、個人や社会とのかかわりの中で正直かつ公平に生きることによって、社会、家庭、交わりを建てあげていくとき、わたしたちは知恵が与えてくれる祝福を自分のものとしていると考えることができます。適切に用いられてはじめて、知恵は知恵として輝くのです。
 
II. 上級者のために(1:5-6)
 箴言は確かに知恵の初心者たちのための書です。しかし、一通り学んで、それなりの知者になればもう知恵を獲得する必要はないのでしょうか。そうではありません。箴言は、「知恵を学ぶことは生涯教育である」と理解しています。
 ですから、「知者」と呼ばれるような人となったとしてもまだまだ学ぶことはあります。多くの箴言を通して「学に進み」(1:5)、つまり、教訓を受け続けなければならなりません。恐ろしいことですが、学ぶことをやめたとき、知者はたちまち愚者となってしまいます。絶えず箴言に聞き続け、知恵の言葉をいただき続け、慎重さと注意深さを深め続けなければいけません。銀の食器は磨き続けるのをやめた時に曇りはじめるように、知者である続けるためには継続した知恵の獲得が必須です。
 「指導を得る」(1:5)とは「人生操縦法」を学ぶことです。もちろん初歩のクラスで学ぶ基本的な人生操縦法もあるでしょう。しかし、人生の新しい局面を迎えるごとに新しい操縦法を学ぶべきことを忘れてはいけません。人生はそれほど複雑であり、その操縦法は一筋縄ではいかないからです。更に、人生の操縦法は悪用することも可能です。悪しき者も人生操縦法(ここでは「計ること」と訳されている)を知っています(12:5)。正しい人生操縦法を学び続けなければなりません。
 知恵の上級者が継続して人生操縦法を学び続けるならば、高度な知恵を獲得することができるようになります(1:7)。わかりやすい箴言から難しい格言まで、子どもでもわかるようなたとえからスフィンクスの謎まで。より深く、より広く知恵を獲得することができるのです。継続して学ぶからこそ、複雑な人生に対する操縦法に長けていくのです。
 
III. すべて知恵を求める人のために(1:7)
 このように、箴言は知恵の初心者から上級者まで、あらゆる人に人生の操縦法を教えてくれる素晴らしい書です。しかし、箴言が私たちに与えようとする祝福にあずかるための必須条件があります。それは主をおそれること」という姿勢を忘れないことです(1:7)。これは「神の前に絶えずおびえ続ける、神の裁きにびくびくしながら生きていくこと」ではありません。むしろ、この世界において主なる神こそ神であると認めることを意味しています。この方が世界のすべてを創造され、今もすべてをその主権の下に治めておられ、人生操縦法である知恵を規定しておられるという信仰に立つことなしに、聖書の知恵である箴言から学ぶことはできません。謙遜に神から、そして神が造られた世界から学ぶ姿勢である「主を恐れる生き方」が箴言を通して知恵を学ぼうとする者には必須です。そして、信仰に立っていない知恵はむしろ危険と言えるでしょう。従って、聖書の知恵はちまたにあふれている「生き方のヒント」とは根本的に異なります。もちろん、どちらも全く同じことを忠告している場合もあるでしょう。しかし、聖書の知恵は主への信仰に深く根ざした知恵です。単なる「この世界でうまくやっていく方法」ではありません。信仰に堅く立って、主を恐れる姿勢を自分のものとすることこそ、知恵の探求の第一歩です。
 更に、先にも述べましたが、「知恵と教訓を軽んじる」(1:7)姿勢、つまり学ぼうとしない、教えられようとしない姿勢はわたしたちを愚かな生き方へと必然的に導いていきます。知恵を軽んじることによって、先達に学ばない傲慢な姿であり、わたしたちが円熟に向かうために主が与えようとしておられる人生の操縦法を学ぼうとしないからです。信仰に立ち、主を恐れることをその歩みの土台とする者として、主の知恵への招きに応えて歩ませていただきましょう。