詩篇(その2)

 詩篇の中には様々な歌が含まれています。前回は讃美の歌と律法の歌を学びましたが、今回は祈りの歌、感謝の歌、そして主が王であることを物語る歌の三つについて考えてみましょう。
  
I. 祈りの歌(142篇)
 詩篇の中には祈りの歌が多く含まれています。敵に囲まれたり、病の中にあったり、迫害の中にあったり、捕囚の中にあったり、と困難な中にいる時に、詩人が主に向かって叫んだ祈りです。神なしでは生きていることのできない、弱く貧しい者が、主への信頼に立ってこれらの祈りをささげています。
 142篇はそのような祈りの歌のひとつです。詩人は、まず祈りの対象である主に向かって声をあげます。何度も主に願いの声を上げます(142:1)。それは単なる願いに留まりません。自らが直面している困難から産まれてくる嘆きと悩みの声です(142:2)。なぜそのように声をあげるのでしょうか。それは「彼ら」と呼ばれている詩人の敵が詩人を捕らえようとして罠を隠しているからです(142:3)。更に、誰一人として詩人の困難を心に留める人はおらず、彼を守る人もおらず、隠れる場所も全くありません(142:4)。敵に囲まれ、孤立無援の状況で詩人は祈っています。もちろん、これらの祈りの言葉は詩人の置かれている状況に対する不平の祈りではありますが、間接的には困難の中で何の介入もされていないと思える主に対する嘆きでもあります。
 主が働かれないと思えるような現実に囲まれている詩人は、主への信仰を失うのでしょうか。いいえ。むしろ詩人は「あなたはわが避け所」(142:5)と主への信頼を告白します。困難に囲まれ、主のみわざを目の当たりにしなくても、彼は主への信頼を失いません。むしろ、叫びを主がその心に留め、詩人を責める者から彼を救いだし、捕らわれの場(ひとや)から彼を救い出して下さることを請い願っています。なぜならば、詩人は主が心に留めるべき低く弱い存在であり、強大な敵に囲まれているみじめな存在であり、主へ感謝をささげることができる存在だからです(142:6-7)。詩の最後では、詩人は、主が祈りに答えて下さり、敵の手から救い出された時、多くの人々と共に主に感謝をささげる約束をします(142:7)。
 困難の真ん中でわたしたちは最後の頼みの綱として主に祈ります。「なぜ聞いて下さらないのですか」と祈りつつも、主への信頼は変わりません。ですから、困難の中での祈りは主へ信頼の現れです。詩篇の詩人に倣いつつ、ためらわずに祈り求めたいものです。
 
II. 感謝の歌(30篇)
 困難の中で主に祈り、その祈りが聞かれ、困難の中から救い出された時、わたしたちは主への感謝をささげます。それと同様に、詩篇の中には主から救い出された感謝を歌っている詩がいくつか含まれています。
 30篇において、敵の手から救い出されたことを喜んだ詩人が主に感謝をささげています。主が詩人の上に実現された救いには様々な側面があります。まず、「敵に対する勝利」。詩人の敵が勝ち誇ることを主はゆるされませんでした(30:1)。次に「祈りに対する応え」。詩人の祈りに対して、主は確実に応えられ、様々なことから彼を癒して下さいました(30:2)。最後に「いのちの回復」。死者の住む陰府から詩人を救いだし、彼を生き返らせて下さったのは主です(30:3)。詩人は主のなして下さったみわざを讃美を通して証ししています。
 主の救いのゆえに、詩人は讃美の歌をささげています(30:4-5)。主の素晴らしいみわざを経験したからこそ、讃美の歌が生まれてきます。この讃美の歌には先に学んだように、讃美に加わるように呼びかけること(「主の聖徒よ」)、讃美そのもの(「主をほめ歌い、その聖なるみ名に感謝せよ」)、そして讃美の理由(「その怒りはただつかの間で、その恵みはいのちのかぎり長いからである」)が含まれています。詩人は確かに主の怒りを経験しました。困難の中に陥りました。しかし、主はそこからの救いを速やかに用意して下さいました。だから、讃美が詩人から生まれてきたのです。
 30:6-12において、詩人は主への信頼を告白し(30:6-7)、かつて祈った「祈りの歌」をもう一度引用し(30:8-10)、最後に主のなされた救いを語り、そして主への感謝をもってこの詩を閉じています(30:11-12)。
 わたしたちの生涯は、主への嘆きの祈り、祈りに応えられる主のめぐみのみわざ、そして主への感謝の繰り返しです。そして、祈りと感謝を繰り返す中で、わたしたちの主への信仰が深められていきます。主のなして下さったすばらしいみわざに気がつき、そこから主へ感謝をささげる者へとならせていただきたいものです。
 
III. 主は王である(96篇)
 詩篇が告白する信仰の根底にあるのは「主は王である」という信仰です。そして、詩篇には主が王であることを物語る詩が多く含まれています。
 96篇を見ると、主が王であるの意味がいくつか示唆されています。まず、「もろもろの神にまさって恐るべき者である」(96:4)。どれだけ多くの神々がいたとしても、それにまさる存在である、ということ。次に王である主は「もろもろの天を造られた」(96:5)であるということ。天地の創造者こそまことの王です。ですから、主は王である、という詩篇信仰告白は、イスラエルを導き、守ってこられた神こそ、全世界を支配しておられる神であり、支配しておられるこの世界を造られた方である、ことを指しています。
 イスラエルの神である主が王であり続ける時、一体何が起こるのでしょうか。それは「世界は堅く立って動かされることはない」(96:10)。世界に混乱はなくなり、正しい秩序がもたらされます。公平と公正が地に満ちあふれます。それは主が「公平をもってもろもろの民をさばかれる」からです(96:10)。王である神の支配による公正と正義の確立こそ、イスラエルが主に願っていることです。
 しかし、まだ現実がそうでないことを詩人は自覚しています。ですから、主の完全な支配が来るように願っているのです。「主は来られる、地を裁くために来られる」(96:13)はこの主の完全な支配を求める祈りです。
 クリスマスにわたしたちは「主はきませり」と讃美をささげます。それはこの公正と正義をもたらす主の到来を待ち望む讃美です。最初のクリスマスに、この地上に来られて神のご支配のはじまりを宣言されたキリストがもう一度来られる日を待ち望みながら、讃美と祈りと感謝の歌を謳いつつ歩ませていただきましょう。